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昔話の森

日本の昔話

カチカチ山

 題名をクリックすると、おはなしの全文を読むことができます。お気に入りのものをテキストとして語ってください。
 おはなしの本文は共通語の文章です。このまま覚えてもいいですし、自分の日常の言葉に直して語ってくださるとなおうれしいです。  日常語の語りについてはこちら→
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話型名「糠福米福」。全国で非常に多く語られている継子話です。「米福粟福」ともいいます。栗拾いではなく椎の実拾いだったり、援助者が旅のお坊さんではなくて、山姥、おばあさん、神仏、亡くなった母親の霊である鳥だったりします。
ところで、グリム童話「灰かぶり」に登場する白い鳥が、亡母の霊だったことを思い出してください。舞踏会に行く美しい衣装と靴を出してくれますね。お坊さんのくれた小箱も同じまほうです。灰かぶりは靴を残していきますが、ここでは下駄になっています。そっくりですね。
そうです、「糠福米福」は、世界的に見ると、ATU510a「シンデレラ」に属します。シンデレラは、世界的にもっとも広く分布しているといわれる継子話です。
継子話を、自分を支配する存在(母親)から迫害を受け、あるいは阻害され、自分にとって唯一の援助者の力を得て、幸せをつかむ話、と考えると、だれもに心当たりはあり、渦中にいるとき、大きな希望になるのではないかと思います。だから、普遍的に広がっているのではないかと思います。
内容的に、高学年向きでしょう。
 

日本各地に残る山の背くらべの伝説のひとつです。≪昔話雑学≫では、「山の背くらべ」の項で、柳田国男の論考からいくつかの伝説を紹介しました。この富士山と八ヶ岳の伝説は、それより少し後に記録されたものです。『口碑伝説集』は昭和十年の発行です。
音声は関西弁で語っていますが、土地のことばで富士山や八ヶ岳をながめながら語れば、きっと楽しいでしょうね。
 

 鹿児島県の沖永良部島で伝承されていた昔話。 もとの語り手がつけた題は「神様の申し子」です。
赤い花が咲けば男の子、白い花が咲けば女の子が生まれるという予言や、駿馬に乗り、七人力の刀をたずさえて彼岸に出かけて行くというモティーフなど、ヨーロッパ的な雰囲気がありますね。まるで竜退治のようです。
この話型の話は、南西諸島の限られた地域にだけ残っているそうです。
日本の話では、アイヌの話と南の島の話が他と違うスケールを持ったものが多いです。
名前など、言葉が耳慣れませんが、内容的には4年生くらいから聞けると思います。いじめにあった寅千代丸がどのように生きて幸せになるか、勇気づけることができればと思います。
 

  日本の愚か村話です。「床をとれ」と「手水を回す」のふたつの笑い話が合体しています。この話群は、短くて、次つぎ連鎖することがあるようです。解説は、昔話雑学→こちらを見てください。
 この話は、落語にもあります。大人は笑えるのですが、現在の子どもたちには、「床」「手水」の意味がすぐに分からないので、言葉のしゃれで成立するこの話は、笑えないかもしれません。高学年以上の子どもに試してみてください。

 立石寺は、長野県飯田市にある古刹で、九世紀の建立といわれています。そこの仁王像の話ですが、これは、この土地、このお寺にまつわる話なので、昔話ではなく伝説です。人のすむ里から離れた古いお寺の仁王さまが、村に出てくる話ですが、通い婚の風習もまだ人々の記憶にある時代の笑い話ではないかと思われます。
 大人向けのおはなし。

 和尚と小僧譚のひとつで、話型名は「小僧改名(こぞうかいめい)」といいます。けちん坊の和尚さんが、おいしいものをいつもひとりで食べるので、小僧が一計を案じる話です。
  小僧はひとりではなく三人のパターンが一般的なようです。ここでは、幼い子向けにと考えたので、和尚と小僧が一対一でやりあうものを原話にしました。
  餅だけでなく、お酒もいただくという話もあります。
  「小僧改名」は、「鮎はかみそり」「馬の落とし物」「焼餅和尚」などの話型といっしょになって、連鎖譚として語られている場合もあります。

 きつねにだまされた話です。山で道に迷うと、狐に化かされたんだといい、馬のふんを食わされたとか、野つぼを風呂だと思って、気持ちよく入ったとかいって、笑い合います。そんな時代がついこの間まであったのですね。
 科学の発達した現代では、本気にする人はいないでしょう。けれども、現代でも、きつねは、神の使いとして信仰されています。お正月には、稲荷大社にお参りする人が、全国から集まって来ます。妖怪としてのきつねは、神さまのなれの果てと考えられています。
 福島県のこの話は、娘きつねにだまされて泊まった所が、彼岸花の草原でした。視覚的に美しいですね。
 余談ですが、彼岸花には、「まんじゅしゃげ」などの別名があって、地方によって呼び名が変わります。あなたの地方では、何と呼びますか?「きつね」が含まれる呼び名もありますよ。「きつねのちょうちん」「きつねのかんざし」「きつねのはなび」「きつねのたいまつ」「きつねのろうそく」「きつねのたばこ」など。
  彼岸花について知りたい人には、絵本『ヒガンバナのひみつ』(かこさとし作/小峰書店)『ひがんばな』(甲斐信枝作/福音館書店)がおすすめです。

 これは、岡山県に伝わる「さるかに合戦」です。以前に紹介した鳥取県の「さるかに合戦」と、冒頭が異なります。さるがより狡猾になっています。会話文がリズミカルなのはどちらも同じですが、「ぱちくり」「ぽんぽらはち」「とっこんうす」などの名前やオノマトペは、こちらのほうが豊かです。幼い子どもはこちらのほうが喜ぶかもしれません。でも、語るのは難しいかもしれません。
 テキスト選びの参考にしてください。
 鳥取と岡山は地理的に近いのですが、同じ話でもこんなふうに違うのですね。

 話型名は「閻魔(えんま)の失敗」といって、日本全国に伝えられています。笑い話で、『日本昔話通観』では、その「誇張」に分類されています。笑い話は短いものが多いのですが、「閻魔の失敗」譚は、長いですね。旅の職業人によって、改作されながら伝えられたのではないかといわれています。
  徳島県のこの話では、お医者と、山伏と鍛冶屋が地獄送りになりますが、ほかに、歯医者、軽業師が出てくる話もあります。
  地獄に送られた三人は、それぞれ自分の特技を生かして、切りぬけます。剣の山では、鍛冶屋が金(かね)のわらじを作って剣をこわします。熱湯の釜では山伏が水の印を結んで水に変えます。鬼の口の中では、医者が薬をまきます。条件の一致がそのまま笑いになっています。
  落語の世界でも江戸時代から話されていたとのことです。いまは、関西では、『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』という演目で、一時間以上かかる大ネタです。この落語をもとに作られた絵本『じごくのそうべえ』(田島征彦作/童心社刊)は、子どもたちに人気です。

 娘が蟹をかわいがっている、または蟹の命を助けてやる。娘は蛇の嫁になると約束するが、蟹に助けられる。というはなし。 話型名は、「蟹報恩」または「蟹の恩返し」。『日本霊異記』『今昔物語集』などの古い文献にあります。だからでしょうか、全国に分布しているそうです。
  ここに紹介したのは、島根県に伝わっている話ですが、資料の註に、「蟹満寺」は山城の国にあるとあります。現京都府木津川市にある蟹満寺の由来として語り伝えられたものです。
  実際に蟹満寺には、蟹の恩返しの伝説が残っています。比較すると、冒頭が少し異なっているのが分かります。娘は蟹を、いたずら小僧から助けてやります。いっぽう、父親がかえるをヘビから助けてやります。娘が蛇の嫁になるという約束は、父親がするのですが、このパターンは、「猿婿」「蛇婿」などの異類婚姻譚にはよくありますね。
  この島根県の伝承は、父親は脇役で、娘の行動にスポットライトが当てられています。また、満月の晩にやって来る蛇の若者の登場も印象的です。それで、語ってみたいと思いました。
  冒頭で娘が「生きているものが、お互いに、食うたり食われたりするのはいけない」といいます。娘の「やさしい」という性格があらわれているのでしょう。けれども、他の命を奪って生きるのが生き物の自然の姿でもあります。結末で、蛇は蟹に「食い殺され」てしまいます。そして、娘は「尼になって」、一生蟹を弔うことになります。宗教的、哲学的な課題を考えさせてくれる話になっています。

 中国の「岩じいさん」を思い出させるおはなしです。日本にもあったんだと嬉しくて再話しました。昭和9年発行の資料です。
 会話文の語尾を少しだけ土地言葉にしました。「とーかっちり」は結末句です。結末句については、≪昔話雑学≫を見てくださいね。

全国に残っている昔話です。朝鮮半島や中国にもあるそうです。 話型名は「雨蛙不孝」といいます。親不孝を戒めるおはなしですね。
子どもが親に口答えしたり、いうことを聞かないことが重なると、祖父母がこんな話をしたのかなあと想像します。じかに説教をするのではなく、物語で教えようとする文化を取りもどしたいです。
この話は蛙ですが、トンビやハトの場合もあります。また、親のいうことを聞かない男の子が、あまがえるに生まれ変わったという伝承もあります。

奈良県橿原市に伝わる伝説です。狐の伝承は、全国にたくさんあります。狐は神さまのお使いとも考えられて、田の神さまや稲荷と結びつけて語られます。狐がつくなどというのも、霊力があると考えられているからですね。いっぽう、狐に化かされる話は、世間話として広く伝わっています。
「きつねの田植え」は、どちらにも属さない、ちょっとほろっとする話です。
関西弁で語りたい人のために、関西弁のテキストと、共通語のテキストを両方載せておきました。

話型名は「瘤取り爺」。東北から九州にまで分布している、よく知られた昔話です。古くは『宇治拾遺物語』にも載せられています。『宇治拾遺物語』では、おじいさんが山の木の洞に入って雨宿りをしていると、鬼にでくわします。全国に伝わっている話もこのシチュエーションが多いようです。今回再話した大分県のこの話は、冒頭が、ねずみ浄土や地蔵浄土のような始まり方ですね。そして、出会うのは鬼ではなくて天狗です。天狗になっている類話は比較的多いようです。
ところで、この話は、世界的にも類話がたくさんあります。ATU503「小人の贈り物」です。《外国の昔話》にオーストリアの「こびとのおくりもの」を紹介しているので、くらべてみてくださいね。

 アイヌの昔話です。本来は、アイヌ語で語られていて、独特の音楽性があります。ストーリーも壮大なものから、隣の爺型の話までさまざまです。
 この「首の短い男の話」は、知里真志保さんが日本語で記述したものです。対句のようなくりかえしに音楽的な要素が見られますね。
 アイヌの話の多くは、主人公の一人称で語られます。つまり、「わたしは、~」と、主人公が自分の体験として物語を語るのです。ですから、いつも視点は、主人公から見た視点です。子どもに語るときは、少し説明しておくといいでしょう。
 この話、私たちの使い捨て文化を批判しているように感じませんか。アイヌの文化では、あらゆるものに神が宿りますが、首のもげたとっくりですら、神なのです。そういえば、本州でも、古い物を粗末にすると、化け物になって人間に悪さをする話があります。化け物寺の話です。また、つくも神も、ふるい道具などに宿る神ですね。
 現代に通じるテーマだと思って再話しました。高学年に語ってみてください。

 日本じゅうに、和尚さんと小僧さんの笑い話があります。どうしてこんなにたくさんあるのかなと思うほど資料が残っています。でも、パターンは多くありません。きっと、きつねやたぬきにだまされた話と同じく、本格昔話がだんだん語られなくなっていっても、短い笑い話は気楽に語られていったんではないかと思います。とくに、幼い子に語ったり、子ども同士が語り合ったりしたのではないかと想像します。そうやって現代までたくさん残って来たのではないかなと思います。
 ただし、鎌倉時代の『沙石集』(1283年成立)にも載っているので、もとはかなり古いものです。もともとは、お寺が人々の生活に深く関わっていた社会背景の中で伝わっていました。
 この話型では、機転の利く小僧さんが和尚さんをやりこめます。子どもが大人を、社会的弱者が強い者をぎゃふんといわせるので、人気があったのでしょう。
 いまは、単純に、おもしろい話として語ることができます。

 節分に合わせて紹介します。節分の話といえば、豆をまいたり柊やイワシの頭を家の戸口にさしたりして鬼を追いはらう行事の起りを語るものがよく知られています。が、この京都に残っている話は、節分にやって来る「まれ人(びと)」の話です。
 「まれ人」というのは、弘法大師であったり旅のお坊さんであったり、物乞いだったりしますが、いわゆる「来訪神」です。村の外からやって来た来訪神に親切にすると、よい報いがあるという話です。このページでは「大晦日のお客」がそうですね。
 この「節分の客」は、旅のお坊さん(来訪神)が、その家の神さま(土地の神)たちの会話を聞くのですが、昔は、米も野菜も着物も、何もかもが神さまだったのですね。それがおもしろくて再話しました。
 まっとうに生きていると、まわりの神さまたちが守ってくれるという安心感、現代の私たちは忘れているような気がします。

 話型名は「鶴女房」。罠にかかっていたつるが美しい娘になって恩返しにやって来る話です。つるを助けるのは、ここではおじいさんになっていますが、若者であることが多いです。そして、若者の女房になる、つまり、異類婚姻譚が本来のかたちのようです。
 小学低中学年に語りたかったので、婚姻譚でないほうを選びました。
 ところで、機を織っている姿を見てはならないというタブーを冒したために、つるは去っていきます。昔話では、よくタブーが出てきます。そして、タブーは必ず破られます。そうやってドラマが構成されていくのです。その一方で、機織りは古来女性の仕事で、古くは、機織り場は神聖な場所だったという説があります。その神聖な仕事をしている場面を見てはならなかったのです。昔話の構造と、古代信仰とが、すばらしく合致していますね。
子どもに語ってみると→井戸端会議

来年の干支「いのしし」の話です。お正月に間に合うように再話しました。短いのですぐに覚えられると思います。これは長野県の伝承ですが、どうぞご自分のお国言葉になおして語ってください。
 幼い子ども向きの由来話です。
 いのししは、東北から沖縄まで広く生息していて、古来から人々の生活に深くかかわっていたそうです。狩りをして食料にもしますが、田畑に害を及ぼす困った存在でもありました。となると、やはり、神としてあがめられたのです。鹿や熊など人間のそばにいる他の野生動物たちと同じです。山の神が白いいのししとなって現れるという伝承もあったそうです。

 絵本などでおなじみのお話です。誰でも知っている話だと思っていましたが、昔話資料は案外多くありませんでした。それでも、日本各地にまばらに広がって分布しています。
 岡山のこの話は、冒頭でおばあさんがお風呂を沸かします。にんじんとごぼうとだいこんが、畑でしゃべっている光景が目に浮かぶようです。
  「もらい湯」の風習は、いまでは聞かれなくなりましたが、わたしの母の世代では、農村では、都市近郊であっても、当たり前のことだったようです。お風呂を沸かす家があれば、夕方ごろから近所の人たちが三々五々集まって来て、順番を待ちながら世間話をしたそうです。時には昔話も語られたでしょうか。この「にんじんとごぼうとだいこん」もそんな中で生まれた話かもしれません。
 ところで、この類話には、旅に出てお風呂に入る話や、にんじんとごぼうが、病気のだいこんの見舞いに行く話など、いくつかのバージョンがあります。どれも、大根はなぜ白いのか、にんじんはなぜ赤いのか、ごぼうはなぜ黒いのかといった色の由来を説いています。そういった由来譚(ゆらいたん)は、もともと、幼い子どもに語ったものだそうです。

 幼い子がよろこぶお話です。
 「目かご」というのは、竹などで編んだ目の粗いかごのことです。子どもがたずねたら簡潔に教えてあげましょう。
 話型名は「ねずみ浄土」。類話が全国に広がっています。この「だんごころりん」は、隣の爺型の形がきちっと整っています。「だんごころりんだごころりーん すってんとーん」という歌のくりかえしも楽しいです。しかもこの歌は、ねずみではなくだんご自身が歌っています。目かごも自分で歌いながら入っていきますし、おじいさんも自分で歌います。なんともユーモラスです。
 よく似た話で、地下の世界に行ってお地蔵さまと出会う話を「地蔵浄土」といいます。
 おはなしの最後に、「人まねはするものではない」と、知恵を授けているのも、幼い子どもにぴったりだと思います。  

 話型名は「瓜子姫」。きゅうり、もも、うぐいす、といった季節感から、夏の話として再話しました。先に紹介した「うりひめの話」と比べてください。印象がずいぶん違いますね。「きゅうり姫」は、きゅうり姫が殺されて顔の皮をはがれるし、あまのじゃくもひどい殺されかたをします。瓜姫(きゅうり姫)が殺されるという結末は、東北地方での伝承に多いものです。
 親の言いつけを守らないで、ちゃんと留守番しなかった子どもは、こんな目に遭うよと教えているのでしょう。グリム童話の「おおかみと七匹の子やぎ」も母親の留守中におおかみを家に入れてしまって食べられますね。でも、最後は救われます。「きゅうり姫」は再生しません。厳しいですね。現実そのままです。敵は退治されますが、主人公が死んでしまうので幼い子には向きません。
 《昔話雑学》も参考にしてください。

 今回も短いおまけのおはなしです。もうひとつ話をせがまれたときに語られる形式譚の一種です。話の最後を「はなし」で結びます。
 鼻のあなに椎(しい)の実が入って「鼻椎(はなしい)」とか、大根やカブや柿や竹などに葉がなくて「葉なし」とか、この話のように、口を開けたら歯がなくて「歯なし」などがあります。「鼻をにぎられてはなしにならぬ」というのもあるそうです。子どもたちに手をつながせておいて、「放し!」といって手を放させるのもあります。この手のおはなしをひとつ知っておくと便利ですね。
 「駅前の自転車預かりの話」は現代の民話です。気味が悪いですが、「歯なし」のタイプはだいたいがグロテスクなものが多いようです。
 実際に陰惨な事件が起こるので、語りづらかったりするのですが、それを笑い飛ばすエネルギーも大事かなと思います。音声は、おとなに語っているものです。夏休みの恐いおはなし会で依頼されたけれど、どんな話があるのかなと相談を受けて、思い出しました。以前は子どもに語っていました。またやってみます。

 京都府城陽市はわが町の隣町、木津川の川向うの市です。そこに残っていた昔話を見つけました。昔話といっても、とても短くて誰でも語れそうですね。これは、話型名「長い名の子供」という笑い話です。落語の「寿限無」も長い名前の子どものはなしです。
  はなしの最後、子どもが死んでしまうのでぎょっとしますが、笑い話なんですね。
 あっけらかんと笑える感覚を大切にしたいです。
 子どもが「もうひとつ!」とねだったときのおまけとして語ってください。「長い話をして」と言われたときにもいいですね。

 よく知られているいなばの白うさぎの話は、小学校の国語の教科書にも載っています。
  神話なのですが、昔話に共通する要素があります。
 たくさんの兄弟の神は、原文では 「八十神」と表現されています。極端に描かれています、そして、主人公のオオクニヌシは、一番最後、最後尾を歩いています。荷物持ちとして卑しめられているのです。端っこの存在。昔話では、端っこの存在こそが主人公の資格を持っていますね。
 うさぎがさめをだますモティーフも、昔話にあります。このホームページの《外国の昔話》に掲載しているインドネシアの昔話「カンチルとワニ」を見てください。ところで、「いなばの白うさぎ」の「さめ」ですが、原文では「和邇」とあり、「わに」と読ませています。「和邇」が、いったい何の動物なのか、諸説あって定まってはいないようです。ふと、白うさぎ=カンチル、和邇=ワニ???と思ってしまいますね。でも、残念ながら、日本にワニは住んでいませんでした。

 話型名は「宝化け物」。荒れ屋敷に化け物が出るというので、旅の男が泊まって退治すると、お金が手に入るという話。化け物の正体はお金だったのです。お金が人間に使ってほしくて化けて出るっておもしろいですね。「金は天下のまわりもの」といいますが、貨幣経済の社会では、お金を使わなければ世の中が回っていかない。「タンス貯金はダメ」ってことですね。
 ところで、昔話のなかでは、正体が暴かれると、その化け物は出なくなるというのが決まりのようです。「山寺の怪」や「化け物寺」の話でも、正体が蜘蛛だったり欠けた茶碗だったりするのですが、それを言い当てたり、または白状させると、化けて出なくなります。
 子どもは怖い話が大好きです。でも陰惨な話は語りたくないですね。恐くても勇気を持って当たれば大金持ちになれる。なんとストレートで分かりやすいメッセージでしょう。
 昔のお金の話をしてから、語りはじめるといいと思います。

 みなさんご存知の有名なさるかに合戦のおはなしです。
  かにが畑で「生えねばはさもう」「大きいならねばはさもう」・・・と繰り返すと、かきは大きくなっていって実をつけます。リズミカルで、楽しい場面です。昔話の語法でいえば、言葉の出来事によるくりかえしであり、同じ場面は同じ言葉で語られています。
  ただ、このモティーフには、「成木責(なりきぜ)め」という古来の風習が背景にあります。小正月(一月十五日)に、豊作を祈って行われた全国に分布する風習です。その家の主人が、果樹(とくに柿の木)に向かって、「なるかならぬか、ならねば切るぞ」といいながら斧で切るしぐさをし、家人が「なります、なります」と答えるそうです。
  今では行われなくなってほとんどの人が知らない風習が、こんな形で昔話に残っているのです。リュティ理論でいう、社会的(または、呪術的)モティーフが純化されて、昔話モティーフとして取り込まれている例です。
  ところで、この話ではかには殺されますが、再話によっては、かにはけがをするだけで、最後も、猿は殺されるのではなく、ごめんなさいと謝って改心するというように、変えてしまっているものがあります。残酷だからといって改ざんしてしまうと、昔の人が伝えようとした命のやり取り、命のかけがえのなさを子どもに教えることはできません。
  この話は、幼児向けに再話しました。

 日本の神話、今回はスサノオノミコトの話です。
 この話も、昔話の原型であるような気がしてなりません。というのも、力持ちの男の主人公が旅をしてある村にやって来る。その村はなぜか悲しみに包まれている。わけを聞くと、毎年化け物がやって来て娘をひとりずつさらっていくのだという。人身御供ですね。で、主人公は、その娘を隠しておいて、化け物をやっつける。という話があるでしょう。話型名「猿神退治」。とてもよく似ていますね。
 「猿神退治」は全国に広く分布しています。犬を使って退治させる「しっぺいたろう」も類話です。
 しかも、ATU300「竜退治をする男」として、世界的にも分布しているのです。ATU300というのは、国際昔話話型カタログのなかでも、「魔法昔話」の最初に置かれている話型です。「超自然の敵」に分類されています。
 やまたのおろちは、外見から見ても、確かに超自然の敵ですね。でも、スサノオは、やまたのおろちを退治するために、アシナヅチに神棚を造らせて、お酒を供えさせています。やまたのおろちはもともとは神さまだったのではないでしょうか。「猿神退治」の化け物も、村人たちは神さまだといっている話が多いです。興味は尽きません。
 やまたのおろちの尾から出てきた草薙剣は、三種の神器のひとつで、名古屋市にある熱田神宮のご神体です。

 なぜなに話です。由来譚ともいいます。動物が出てくるなぜなに話は幼い子が初めに聞く昔話だったそうです。幼稚園で語りたいと思って再話しました。お正月でエビを食べた子もいるかもしれません。
 それにしても、エビは死んでしまいます。ちょっとかわいそうですが、タカの優しさに救われますね。教訓話でもあります。

 「月待ち(つきまち)」という行事は今ではほとんどなされなくなったようです。月の出を待って拝む行事のことで、この日は、講の人たちが集まって、飲食をともにします。今では、十五夜がその名残ですね。満月の出を待って、だんごやいもを供えて皆でお祭りをしますが、ほとんど子どもための行事になっています。もともとはおとなが集まって物忌みをしたということです。
 十七夜、十九夜などがあり、二十三夜待ちは全国でも特に多かったそうです。
 この喜界が島の話では、二十三夜の月の神が物乞いの姿になって現れます。主人の「物乞いだって同じ人間だ」という心根に感じ、月の神は恵みをさずけます。ただそれには、妖怪を切り捨てるという勇気も試されなくてはなりませんでした。
 天地をつなぐ柱とは、いったいなんの象徴なのでしょう。月の神、赤ん坊のようなニンジュ、妖怪シチ。太古の信仰を想像させるふしぎな話です。

 戦後、国粋主義への反省から、小中学校で日本の神話を学ぶことはほとんどなくなりました。けれども、みなさんどこかでストーリーを聞いたことがあるのではないでしょうか。
  世界じゅうの民族が神話を持っています。自分たちの神さまが活躍する話です。日本では、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)などの歴史書のなかに書かれています。ただし、読めばわかるように、神話は歴史ではありません。
  神話については、「昔話雑学」のページ「伝説」の項でほんの少しふれています。昔話や伝説とよく似た内容のものがあることが興味深いので、何話か再話しようと考えています。まずは、『古事記』の始めのほうにある「黄泉平坂」から始めました。ほら、気づきませんか?物を後ろに投げて逃げていくモティーフ「逃竄譚」です。

 話型名、「隣の寝太郎」。寝てばかりいる怠け者が、あるとき一念発起して知恵を使って長者の婿になる話群を広く「隣の寝太郎」といいます。
 ここに紹介した寝太郎は、知恵といっても、天帝の使いだと偽っているわけで、罰が当たらないのかなと思ってしまいます。が、なんのなんの、大成功。そして、ほんとうに働き者に変身するのですね。若者の可能性を信じよというメッセージかな。それとも、貧しい庶民の夢。または庶民の生き抜こうというエネルギー。いろいろ考えさせられます。でも、あんまりまじめに語る話ではなくって、笑い話として語るといいかなと思います。笑いの中に真実ありって感じで。
 「隣の寝太郎」は日本全国に分布しています。『遺老説伝』は、十八世紀に編纂された沖縄の歴史書です。もとは漢文の写本(手書き)ですが、それを書き下し文にしたもの(1935年刊)から再話しました。
 全国的には、しらさぎではなくて鳩にちょうちんをつけてとばす話が多いです。寝太郎が登る木がガジュマルというのも沖縄らしいですね。

   善良なおじいさんが、地蔵に笠をかぶせて、お礼をもらう話。全国に分布します。伝説にもあるそうです。
  多くが、大晦日の話になっていて、お地蔵さまは雪をかぶっています。「笠地蔵」というと大晦日の雪。それはそれで季節感があっていいのですが、この山形の話は、雪ではなくて雨に濡れています。だから季節を問わずに語れます。
  かさがひとつ足りないから、ふんどしをかぶせた、でも失礼だったかもしれない、と心配するおじいさんの心根の良さが好きです。

  現代の民話です。かつては、このような怪談話はどこにでも転がっていました。夜道に大入道が出るという世間話を、大人も子どもも信じていました。
 ところで、みなさんは、ほたる狩りをしたことがありますか。ちょうど6月の終わりから7月にかけては、日がくれるのがおそく、以前は、子どもたちだけで遅い時間でも外で遊んだものです。田んぼのなかをたくさんのほたるが舞う様子は幻想的ですが、子どもにとっては、何匹とれるかを競う思いがはやります。わたしは、ネギの中にとったほたるを入れて持ってかえりました。虫かごなんか不要な時代でした。

  話型名は「瓜子姫」。全国に分布しています。子どもに語ると、冒頭で「ももたろうと同じだ」と声が上がります。どちらも異常誕生に分類されています。
 瓜子姫は大きくふたつの型に分けられます。うりひめが殺されてしまうものと、この話のように結婚するものとです。前者はちょっと残酷な描写があります。柳田国男は、後者が古い形で、もともとは外国から入ってきたのではないかといっています。ATU番号は408「3つのオレンジ」。そういえば、あまんじゃくは、偽の花嫁ですよね。
 あまんじゃくが殺されて、その血でソバとカヤの根元が赤くなったという結末もあります。
  この話は、瓜子姫が幸せになることと、あまんじゃくが罰せられないことがいいなと思って再話しました。 

  私のすむ地方は竹の子の産地で、竹やぶはとても身近にあります。竹やぶに入っていくと、ほんとうにこんなことがあってもおかしくないという気持ちになります。
 竹の中から天人が出てくる、というと、日本最古の物語『竹取物語』を思い出しますね。竹の子童子は天人ではありますが、「桃太郎」や「瓜姫」と同じく、昔話の話型では「異常誕生」に分類されています。
 ところで、三ちゃんは、願いをまだひとつしかかなえてもらっていません。続きが知りたいですね。日本の昔話は、ヨーロッパなどの魔法物語と違って、こんなふうに短いものが多いような気がします。なぜでしょうね。
 は2年生です。

  怖い話です。この虫は何を意味しているのかと、思わず考え込んでしまいす。
  子どもが訳もなくむずかるのは、大人にとって本当に難儀なものです。それを収めてくれる虫は、ありがたい。でも、鉄を食べるこの虫の正体は分かりません。どんどん成長して牛ほどになります。その不気味さ。手に負えなくなって、とうとう蹈鞴で溶かそうとする。その人間の行為も不気味です。そしてその行為によってカンニュウ卿は自滅します。
  なんとなく原子力を予言しているような感じがします。『佐渡島昔話集』は1942年刊です。

   話型名は「無言くらべ」。日本じゅうで語られていたようです。
 それどころか、世界じゅうに残っているようです。ATU1351「沈黙の賭け」、夫婦に関する笑い話のひとつです。
 日本では、たいていもらったおもちでだんまりくらべをしますが、外国では、先にしゃべったほうがお皿洗いをするとか、賭けるものにお国がらが出るようです。
 音声は3年生のライブ。自分たちもだんまりくらべをしようって、盛りあがっていました。何を賭けるんでしょうね(笑)

  話型名は「絵姿女房」。日本各地に残っている昔話です。前半はどれもよく似ているのですが、後半が2種類に分かれます。
 ひとつは、物売り型。若者が物売りに変装して、妻をさらった殿さまのところへ行き、妻をとり返します。物売りの売り声に妻が笑うので、殿さまは物売りと着物を取り替えます。殿さまは屋敷を追いだされ、若者が殿さまになって、めでたしめでたし。風刺的ですね。柿売り、桃売り、ほうろく売りなどのパターンがあります。
 もうひとつが、この難題型です。妻が才色兼備。妻の機知で若者は救われます。ここにのせた新潟の話は、最後、殿さまが「まいった!」という感じであきらめるのが好きで再話しました。
 世界的にはATU465「美しい妻のために、迫害された男」という話型です。世界じゅうに分布していますが、妻の絵姿で王さまが横恋慕するというモティーフのないものもたくさんあるようです。

  「なぜ話」のひとつです。なぜ話は、物やことがらの由来を語る話。たとえば、「そばのくきはなぜ赤いのか」「くらげにはなぜ骨がないのか」「なぜ猫はねずみを追いかけるのか」などなど、いくらでも思い出せますね。なぜ話は幼い子どもが喜ぶようです。
 外国のなぜ話をさがすと、「かめの甲羅にはなぜひびが入っているのか」「くまのしっぽはなぜ短いか」「なぜ海は塩辛いか」など、日本と共通する話が見つかります。でも、「なぜ天国にはこれほど聖職者が少ないか」とか、「なぜ髪の毛はひげよりも先に灰色になるのか」などは日本ではきいたことがない(笑)、興味津々ですね。
 著者の岡白駒(はっく)は江戸時代元禄生まれの儒学者で、兵庫県西宮でお医者さんをしていましたが、のちの京都に移ります。西田維則(いそく)は白駒のお弟子さん。滋賀県の出身です。
 『奇談一生』は、書かれてから百年以上後に正式に出版され、それは今も読むことができます。出版したのは浪速の本屋、赤志忠雅堂です。それで、出所を大阪にしました。

  優しいおばあさんと欲ばりでいじわるなおばあさんの話。いわゆる隣の爺譚 →こちら です。この形式の話は、「はなさかじい」「こぶとりじい」「へこきじい」などなど、子どもたちにはとってもなじみがあります。
 音声は一年生のライブですが、「さて、おばあさんの家のとなりに」といっただけで、子どもたちが顔を見合わせたり、笑ったりしているのが分かると思います。「やっぱりね」とうなずきながら、欲ばりばあさんにどんな罰が当たるのか予想して楽しんでいます。前半はちょっとドキドキしながらストーリー展開を楽しみ、後半は余裕をもって予想しながら楽しむ。この型の話のいいところだと思います。
 昔話は同じ場面は同じ言葉で語ります。繰り返しのリズムは、語る者にとっても楽しいのですが、子どもたちも嬉しいようです。からだを揺らしたり、いっしょに口に出したりして楽しみます。
 欲ばりはダメだよという道徳的なメッセージを、子どもたちは楽しんで受けとります。押し付けではなく。もともと子どもには強い正義感があります。昔話には、それを引き出す力があるんだなあと思います。
 おはなしが終わって、ろうそくを消すとき、みなお願い事をひとつします。この日、わたしが、「ひとつだけよ」っていったら、「欲張ったらあかん」と笑っていました。そして、「つぎは欲ばりじいさんの話をして」ってリクエストされました(笑)

  檀家の人たちにとって、和尚さんというのは、なんでも知っている偉い人だったのでしょうね。
 昔話「だんだん飲み」でも、病気になったので和尚さんのところに相談に行きます。
 「だんだん飲み」の和尚さんもとぼけた人ですが、ちゃんと病気を治してくれます。でも、「こんぶ」の和尚さんは、じぶんがお金をせしめています。

 きもだめしは、若者たちの納涼のイベントとして、昔からよくあったようです。きもだめしを題材にした昔話は、『子どもと家庭のための奈良の民話3』にも載せています。笑い話のひとつです。
 今は、小学生の子ども会、中高生の学校祭などでも行われることがありますね。
 どこの遊園地でもお化け屋敷は大人気ですが、お化け屋敷がきもだめしと異なるのは、人工的にお化けを作って人を驚かせること。きもだめしには、人の作ったお化けは出てきません。出てくるのは、本物の・・・。いえ、墓地や山中に浮遊している(とみなが信じている)霊。こわいですね。
 さて、この話の落ち、わかりましたか? 歯がないから歯無し、はなし。全国にみられる落ちです。鼻に椎の実が入って、はなし。葉がなくて、はなし。などもあります。

 話型名「旅人馬」。災厄から逃げる話で、これも「三枚のお札」などと同じ逃竄譚に属します。
 「旅人馬」は日本全国に伝わっています。ここに再話したのは鹿児島県喜界が島の話ですが、『子どもに贈る昔ばなし15 馬にされた大吉』所収の話は岩手県の話。馬にされた大吉が逃げるとちゅう、子どもたちの歌を聞いて、人間にもどる薬草をさがし求めて助かる話です。「旅人馬」の「七十歳のおじいさんの助言」の役割をするのが「わらべうた」、「なす」が「薬草」。小道具の違いが、話のテーマや空気感に深く影響すると感じます。大吉のほうもぜひ読んでくださいね。
 この話型は、古くは平安時代末期八百年以上前の『宝物集』という説話集に見られます。全国に広がるのもうなづけます。
 ところが、国際カタログで探してもこの話型名はありません。STU314「黄金の若者」が最も似ていますが、魔法の馬の正体が王子だったというあのパターンの話です。魔法使いから逃げ出す逃走のモティーフもありますが、ほんと、かすかに似ているなあという程度です。
 馬にされるあの不思議な魔法や人間にもどるための苦難の旅は、描かれていません。
 では、「旅人馬」は日本に固有の昔話なのでしょうか?
 じつは、中国の唐の時代に書かれた『河東記』という伝奇小説集にこの話があるのです。九世紀前半。古いですねえ。そのなかの「板橋三娘子(はんきょうさんじょうし)」の話がこの「旅人馬」。中国でも好まれて後に単独で書物になったりしています。
 書物が日本に入ってきて口伝えされたのでしょうか? それとも、中国や朝鮮半島で口伝えされて日本に入ってきたのでしょうか? 極東地域の人々の交流を想像するとたのしいです。
 『河東記』の三娘子の話は、絵本『ふしぎなやどや』(はせがわせつこ文/いのうえようすけ絵/福音館書店)で読めます.

 奈良県東吉野村に伝わる伝説です。語ったおじいさんは、「 いまどき、天狗が出るやなんて、そんなことはあらへんけどな 」 といいながらも、実際にその石があることを証拠として、「 まんざら嘘でもないと思う 」 とおっしゃっています。
 マックス・リュティは、昔話と伝説の違いを説明して、「 伝説は信じられんことを求める 」といっていますが、その一例だと思います。
 ひょんなことから彼岸に行ってきた昔話はたくさんあります。語りの森でも《日本のおはなし》のページに「 豆まきの由来 」→こちら「 豆さんころがれ 」→こちら「 さかべっとうの浄 土」→こちら「 地獄へ行った吉兵衛さん 」→こちら「 豆の大木 」→こちら「 たなばた 」→こちらを紹介しています。
 ただ、伝説「 天狗のまな板石 」では、彼岸は、はるか遠くにあるのではなくて、ふだんから人が行ききする山、地域の生活の場がいきなり彼岸となるのです。天狗はすぐ裏の山に棲んでいます。これも伝説の特徴です。昔話なら、彼岸ははるか遠くにあります( 昔話の語法参照→ 一次元性 )。
 裏の山に天狗がすんでいるということを信じられなくなった現代の大人。寂しさを感じてしまいます。

 話型名 「 しっぽのつり 」 の類話は日本だけでなく世界じゅうに分布しています。氷の穴から尻尾を下ろして魚釣りをする、尻尾が凍りついて取れなくなる、という話です。身動きできなくなって、村人にこっぴどくやられることが多いです。たいていは、動物のどちらかが悪がしこかったり、またはいつも乱暴な相手を知恵を使って懲らしめる話になっています。
 大阪の和泉地方に残っていたこの話は、凍りついた尻尾が切れて短くなったという由来話になっています。そして、熊も狐も何の駆け引きもしていません。のほほんとした熊になんとなく親切な狐。どこにでもいる私たちのような二匹に心なごみます。音声は学童保育でのおはなし会。この日は人数が少なく1、2年生のみ。わたしものほほんと語っています。ー笑

 「うばすてやま」とも。『子どもと家庭のための奈良の民話1』に載せたものを共通語で再話しなおしました。
 この話型の話は全国に伝わっています。年寄りを山に捨てたという昔の風習がもとになっているそうです。いくつかのヴァリエーションがあって、ここに載せた「おばすて山」は、枝折り型とよばれます。
 『子どもと家庭のための奈良の民話1』には、この話型の「蟻通し明神」も載せています。「蟻通し明神」は、東吉野村の蟻通神社の由来として語り伝えられている伝説です。お殿様が年寄りを山に捨てろという命令を出します。ところが、隣の国から難題がふっかけられ、答えられなければ攻め入ると脅されます。そのとき正解を出したのが、捨てられずにかくまわれていたおじいさんでした。それからは、年寄りを山に捨てなくなったというお話。難題型と呼ばれます。
 他にこんなのがあります。父親が幼いわが子といっしょに、老父をもっこで担いで山に捨てに行きます。老父を置いて帰ろうとすると、子どもが、もっこを持って帰ろうとします。こんど父親を捨てにくるときに要るからと。ドキッとしますね。もっこ型です。まったく同じ話が朝鮮半島にあります。「外国の昔話」に載せました。
 それから、老婆致富型。妻にそそのかされた夫が老母を山に捨て、小屋に火をかけます。老母は逃げ、鬼の子から小槌をもらいます。小槌を振って、老母は女殿様になります。それを知った嫁が夫にあんなふうになりたいといい、小屋で焼け死ぬというお話。これも、ものすごいですね。
 柳田国男によると、ここに載せた枝折り型が最も古いそうです。

 端午の節句にちなんで載せました。飯を食わない嫁がほしいなんて、なんてことでしょうと、子どものころ、わたし、気を悪くしていました。追いかけられて当然、ばちがあたったんだって思っていましたよ。
 この類話は全国に分布しています。結末が、よもぎと菖蒲のおかげで難を逃れるものと、夜の蜘蛛は殺さないといけないという俗信の根拠になっているものとがあります。後者は、女の正体が蜘蛛で、夜に女が蜘蛛になって侵入してきたのをやっつける話です。
 女の正体は、山姥や鬼であることも多いです。ここで思い出していただきたいのは、山姥は走る、ということです。この話でもブーンブーンと追いかけてきますね。
 追いかける・逃げるというモティーフを持った話を逃竄譚(とうざんたん)と呼びます。うーん、つづきは昔話雑学でどうぞ!

 生まれた子どもが蛇だったというお話はあちこちにあります。蛇は神としてまつられることもよくあります。ここの母親は蛇は龍のお使いだといっていますね。だから大切にしなくてはならない。蛇にいたずらをして大変な目にあった話もあります。蛇は海に千年、山に千年、川に千年修行すると龍になって昇天するという言い伝えもあります。龍神は雨をつかさどる水神です。
 ヨーロッパの昔話では竜退治の話がたくさんありますが、日本の龍は神さまですから退治されないのでしょうか。余談ですが、ヨーロッパの竜退治の話は、日本では「猿神退治」という話型で全国にたくさんあります。

 話型名 「 ねずみ経 」。日本じゅうあちこちに残っています。短いし、お経の唱え言葉がおもしろいので幼い子どもでも楽しめます。「 お経 」 といっても小さい子は知りませんが、「 おおんちょろちょろ~ 」 がおもしろくて聞きます。でも、偶然が重なってよい結果になるおもしろさは、小学生のほうがよくわかるでしょう。

GO!

   やまんばと桶屋     こわい話

 山の奥には魑魅魍魎が棲んでいます。ときどき、里山に下りてきて、そこで働く人間と遭遇します。このやまんばもそうです。「 さとり 」 の化け物として語られている地方もあります。これも 「 おんちょろちょろあなのぞき 」 と同じく、偶然によって助けられる話です。でも、雰囲気はまるで異なりますね。

 怠け者の息子が親に追い出されて旅に出て成長して幸せになる話。って書いてしまうと身もふたもない ( 笑 ) 。世界じゅうにある冒険譚、竜退治の話ですが、主人公が綿屋の綿弓を打つ弓うちだったり、焙烙 ( ほうろく ) や大名行列や吉野川、竜ではなくてカワウソの化け物だったりと、いかにも日本の話、奈良の話になっています。軽快で笑える話です。

 紀伊山地は森林資源の宝庫です。昔から、森林で伐採された木がいかだに組まれ、川を流されて和歌山の海岸に運ばれました。このいかだ流しの仕事は命がけの大変な労働でした。水を見る力と技にはすごいものがあったそうで、当時のことを書いた本を読むと、人間が自然の中で生きる厳しさを知ることができます。
 そんな厳しい労働のなかでのきつねとのやりとり。ほんわかします。奈良の話のなかでも、大好きな話です。

 話型名 「 大歳の客 」 。これもまた日本全国に分布しています。旅人はお坊さんだったり、巡礼だったり、物乞いだったりします。宿を乞う日が大晦日、つまり年神さまが身をやつしてやってきたのです。死体がお金になるというのが衝撃的ですね。死体とお金という極端な対比、昔話の語法を思い出してください。

 十二支の由来話。だれもが知っている話です。この奈良の話がちょっと違うのは、イノシシの口が長くなった由来も語っているところ。類話によってちょっとした違いがある、このヴァリエーションが楽しいです。

 とんでもないファンタジーですね。原話を初めて読んだときはひっくり返って笑いました。語りで聞いたら面白いだろうなと再話しましたが、語るのはけっこう難しいです。まだ子どもには語っていませんが、対象年齢はどのくらいでしょうね。

 いわゆる猿地蔵の話。日本全国に類話があるようです。「 お香の袋 」 「 お香の匂い 」 ってみやびですね。極端にきたないものと極端に美しいもの。昔話の語法を思い出してくださいよ~。でも、子どもたち、お香ってわかるかなあ。

 私はこのかわいいおばあさんが大好きです。『 子どもと家庭のための奈良の民話 』 は再話者の日常語で書いていますが、ここでは共通語で書いています。、だから、関西弁わかんないってかたはこのとおり共通語で語ってください。また、この共通語をご自分の日常語に直して語ってくださればなおうれしいです。もちろん、本の通りに語ってくださってもうれしいです。

 古典から。虎の威を借る狐の故事を、一休さんが檀家の人に話しているという趣向です。この故事を高学年の子どもたちに知ってもらいたいと思って再話しました。原話の出典 『 一休諸国物語 』 は、『 一休噺 』 『 一休関東噺 』 とともに、江戸時代初期寛文年間に刊行された噺本で、明治まで読み継がれた大ベストセ ラー。一休さんのエピ ソード満載の三部作です。

 「 夢の蜂 」 という話型の昔話かなと思うのですが、「 宝化け物 」かもしれないとも思っています。「 夢の蜂 」 では、人の魂が寝ている間に昆虫になって体から抜け出し、宝を見つけてもどってくるのですが、この 「 くもと夢 」 は、蜘蛛が人の体に入って宝のありかを教えます ね。「 ふたりの男ー昆虫―夢―宝 」 という点で 「 夢の蜂 」 と同じ、ストーリーもそっくり。でも、テーマは違うような気がします。

 戦争が終わって70年。現代の民話と言っていいのでしょうか。弘法伝説のひとつということですが、原話の語り手の思いが切実です。語り伝えたいと思います。

 節分のための話をご紹介。このストーリー、初めは 「 猿婿 」 か 「 蛇婿 」 みたいでしょ。とちゅうで 「 鬼の子小綱 」 になって、そのあと 「 難題婿 」 みたいになって、……最後は氏神さんだったってオチ。短い話なのにモティーフがいくつも組み合わさっていて、おもしろいですね。

 話型名 「 鼠浄土 」。みなさんよくご存知ですね。音声は、4歳児に語っているライブです。ね、わたしの語りの後、子どもが自分の知っている鼠浄土を話してくれているでしょ。

 あまり聞いたことのない話かもしれません。狂言好きのかたには、「 首ひき 」 と同じストーリーだと気づかれたと思います。原話の語り手は大阪の坂田静子さん。明治生まれのかたで、子どもの頃、芝居好きのお父さまから聞かれたと、出典本の注に書かれてあります。この話、大好きで、あちこちで語っています。音声は小学3年生に語ってるライブです。

 恐い話ですが、笑いや悲しみの要素も併せ持っています。この原話を見つけたとき、またひとつ宝石を見つけたと思いました。ぜひ語ってくださいね。原話は國學院大學説話研究会編 『 奈良県吉野郡昔話集 』 に入っています。

 この原話 ( 『 出雲の昔話 』 所収)を見つけたのはおはなしを始めて間もないころです。出雲の土地言葉で語られていますが、きちんと注がついているので意味はよくわかります。でも、この土地言葉では、このまま覚えて語ることはできませんでした。それで、自分の言葉に直しました。どうしても子どもたちに語り伝えたかったのです。まだ、再話の 「 さ 」 の字も知らなかった頃のことです。
 低学年から高学年まで、数えきれないほどの回数を語りました。 音声は、4年生。
 ふだんの生活の中で、幼い子どもは、深い気持ちもなくアリや虫を殺します。そして、殺した命が二度と生き返らないことを、身をもって理解します。衝撃とともに。そんな経験はみなが持っています。だから、子どもは、さるのしたことを残酷だと一方的に非難はしません。むしろ、さるの立場で聞いている子どもは、自分の経験に照らし合わせてはっとします。そして、かにをだんごに丸めて返事させようとするさるの行為を、子どもは 「 我がままだ 」 とは考えません。さるの祈るような思いが分かるからです。共感です。だから、返事が返ってきたとき、子どもは救われたようなうれしそうな顔をします。そして、「 ものいうても返事するもんがおらなんだらあかんなあ 」 というテーマをすっと受けとめてくれます。
 以前、6年生に語ったとき、あとでひとりの男の子が目を赤くして、こっそりいいに来てくれました。
「 昔話はいいなあ。死んでも生き返るから 」
 この子は幼稚園のときから昔話を聞いてくれていた子でした。
ちなみに、ずっとあとになって、松谷みよ子さんの再話による絵本 『 さるのひとりごと 』 が出版されました。

 こんなおばあさんいてますよね。あ、私自身かも ( 笑 )。 お寺の和尚さんが素敵です。かつてお坊さんが檀家の人たちとどのように関わっていたのかが、ほのぼのと感じられる話です。大人どうしで楽しむおはなし会のおまけにどうぞ。

 赤ん坊を抱いてくれといわれて、抱いてやると、女は立ち去り、赤ん坊は石になるという話。こわいですね。私が知っていたのは、雪女の話。でも、ここでは雪女ではなくて人魚なんですね。夏の怪談話に、子どもたちにどうぞ~
 奈良県曽爾村の御亀ヶ池に伝わる伝説だと原話にあります。今はそこに、美人になる温泉 「 お亀の湯 」 があります。

 江戸時代の噺本からの再話。世の中には大きなものがいくらでもあるというこの話は、昔話としてあちこちに伝わっています。それを一休さんの話として噺本に取り入れてあるんですね。 かつてアニメの一休さんが人気だったので、一般的には小僧さんのイメージが強いです。が、噺本に残っている一休さんは、りっぱなお坊さんです。さきにアップした 「 一休さんのきつね話 」 も登場するのはりっぱな一休禅師です。

 現代の民話です。まあ笑って聞いてください。で、おまけの話として子どもたちと楽しんでください。音声は、学童保育の3~5年生です。

 JR関西線の月ヶ瀬口で降りて山に向かうと梅林があります。 関西ではちょっと名の知れた梅林で、梅の季節にはたくさんの人が見物にやって来ます。ふだんは静かな村です。この月ヶ瀬村に残っている伝説を紹介しました。山間の谷川ならどこにでも見られる大きな石を、天狗が作ったと空想し、いかにもそれらしく語り伝えています。人間味あふれるユーモアがあります。

 さかべっとうとは、白い蝶ともカゲロウともトビゲラとも言われている、羽のある昆虫。命の短いはかない羽虫で、それが群れをなして川をさかのぼるそうです。昔話では、龍宮城とか山の中とかの異界に出かけて行って、三日たって帰ってきたと思ったら、三十年、三百年たっていた、という話はよくありますね。その逆のバージョンです。
中国唐の時代の故事に 「 邯鄲 (かんたん) の夢 」 というのがあります。立身出世したいと、故郷を離れた若者が、仙人から望みのかなう枕をもらう。その枕で寝るとたちまち出世して、結婚して、それからは落ちぶれたり救われたりしながら紆余曲折の人生をへて、最後は幸せな余生を送り、天寿を全 うする。と思いきや、ふと目を覚ますと、今までのことはみんな夢だった。人生とはそんなもの、諸行無常、という話です。この中国の故事と同じテーマです。はかない羽虫の浄土に行くというイメージにひかれ、語ってみたいと思いました。

 地獄に行って、閻魔さんを手玉に取って帰ってくる話。 昔話として、各地に様々な類話があります。落語で有名なのは 「 地獄八景亡者の戯れ 」。落語をもとに書かれた絵本 『 じごくのそうべえ 』 も人気がありますね。吉兵衛さんの気楽な生き方、うらやましいです (笑) 。鬼たちも、あんまり恐くないし。閻魔さんが鬼と引きつれて地獄を回るところなんか、まるでお医者さまの回診!ファンタジーの面目躍如といったところです。

 入れ子細工の話です。いろいろなバージョンがあるようですが、わたしは、かつて所属していたおはなしサークルの今は亡き仲間から聞き伝えたものを語っています。「 くら~い くら~い 」 と語り始めるので、子どもたちは恐い話だとすぐに分かって乗ってきます。
 音声は5歳児に語ったときのもの。入れ子の面積がせまくなるにつれて、笑いがクレッシェンドします。こわいことを期待して、はずされるので、笑うのです。緊張と緩和。からだを寄せ合って、いっしょに怖がって、いっしょに笑う。まさに、愛と信頼の語りの場です。この話を伝えてくださった仲間に心から感謝しています。
 この話、一回やると、次回も、またその次の回も、リクエストされます。何回やっても同じように恐がって、同じようにびっくりして、同じように喜びます。ときには、道で出あっても、「 くら~い、くら~い、やって ! 」って言われます ( 笑 )。でもまあ、おまけの話です。
 ジャンピング・ストーリーなので、急に大きな音や声が聞こえると心身に変調をきたす子が、いないかどうか、確かめてから語ってくださいね。

 これもどこにでもあるこわくて面白い話。「 こんな顔 」 という話型です。ちょっとオーバーにやると楽しいですよ。いまは、炭焼きという仕事もほとんどなくなってしまいましたが、かつては、山の仕事で生計をたてる人たちがいました。自然が日常的にそばにあった時代、自然の中で暮らしていた時代には、人間の知では理解できない現象が起こったようです。魑魅魍魎ーちみもうりょ う。奈良は山国ですから、山での怪談が結構残っています。

新潟の昔話。おじいさんとおばあさんが豆を植えるとか食べるとか言ってけんかをするところから話は始まります。いかにも日本の昔話ですね。このパターンってよくあります。「 豆さんころがれ 」 も同じです。ここでは、天上の世界で出会うのは、雷さま。で、雨を降らせる手伝いをするのです。話型でいうと、「 傘屋の天のぼり 」。「 鴨とり権兵衛 」 「 源五郎 」 なんかとおなじです。

奈良県吉野に伝わる話。「 天人女房 」 の話です。ここは、豆のつるではなくて、「 ユゴの木 」 を伝って登っていきます。このユゴって、何の木のことなんでしょう。ご存知のかた教えてください。植物の名前は、その土地によっていろいろに変化しますね。木に登って天にいく話は、外国の昔話のコーナーで、ドイツの 「 天まで届いた木 」 を紹介しています。

 全国に分布する笑い話です。おまけのおはなしとして、重宝しています。音声は4歳児。「 ホットケーキ 」 のおはなしのあと、もっとしてほしがったのでおまけです。オチはぜんっぜんわかってませんね (笑) 。2年生ではわかりますよ。,
 
 

          おはなし会で語る以外にテキストを使用される場合はご連絡ください。