学びの山小屋
日常語で語ろう
日常語とは
「 日常語 」 というのは、わたしたちが、常日ごろ、生活をしているなかで使っているふだん使いの話し言葉のことです。それは、わたしたちの住む土地に根付いている言葉 ( いわゆる方言 ) だともいえますが、それぞれの出身地の言葉の影響も強く受けています。親など肉親の言葉の影響も大きいでしょう。また、テレビ等の影響や、公の場でかしこまって使われる共通語の影響も見過ごせません。
いいかえると、「 日常語 」 は、その人が家族を中心としたその地域の人間どうしでコミュニケーションをとるときの言葉です。何々弁だとか、共通語だとか、ひとくくりにはできない渾然としたその人固有のものです。つまり、個人によって一人ひとり異なります。
みなさんの周りを見まわしてください。みな、さまざまななまりの言葉でしゃべっているでしょう。あなたはいかがですか?
たとえば、わたしは、大阪府で生まれ育ち、父が京都人、母が大阪人です。このホームページの昔話の森・日本の昔話の音声 ♪ を聞いていただくとお分かりのように、大阪弁と京都弁のちゃんぽんで話しています。そして、この言葉は、いま住んでいる京都府南部で古くから使われていた言葉ではありません。でも、この地域の人たちと話すときのわたしの言葉です。
わたしの祖父は、静岡の生まれ育ちで、大阪、京都と移り住みました。わたしの耳に残っている、祖父がわたしに話しかけてくれた言葉は、語彙はほとんど関西のものだけれども、アクセントは関東です。生涯で祖父だけから聞いたなつかしい言葉です。
こんなふうに、ひとりの人間の日常の言葉には、その人が生きてきたあかしとしてのアクセントがあり語彙があり話し方があります。
伝承の語り
かつて伝承の語り手たちは、どのような言葉を使って子どもたちに昔話等を語っていたでしょうか。
それは、その人の 「 日常語 」 だったと思います。その時代、その土地で使われていた、またその人の人生を反映した日常の言葉だったのに違いありません。語り手と聞き手がいっしょに生活していて、生活の中で語られるのですから。ふだん語り手が子どもに話しかけているときの言葉、つまり 「 日常語 」 でお話も語られていたでしょう。これからお話をしますよ、というようなちょっとあらたまった感じはあったかもしれませんね。でも、ふだんの言葉だと思います。
伝承の語りの記録を読んだり聞いたりすると、強い土地言葉 ( 方言 ) のように感じられます。けれども、当時はそれが日常語だったのだと思います。時代が下るにしたがって日常の言葉が変化してきただけのことです。言語はそのように時間と空間を超えて多様に変化するものです。
口承の記録にある言葉は語り手の日常語であった、と考える理由は、おじいちゃんおばあちゃんたち語り手が、聞き手である子どもに通じない言葉で語ったはずはないからです。お話はイメージが命ですからね。日常生活で使っている、その言葉で、分かりやすくお話も語られていたはずです。そして、その個性豊かな言葉とともに、お話 ( ストーリー ) が聞き手の記憶に残ったのではないでしょうか。「 お話 」 と 「 言葉 」 と 「 語り手自身 」 と、この三つは分けられるものではなかったはずです。
いま、現代の語り手たちは、どのような言葉でお話を語っているでしょうか。
ほとんどが共通語ですね。なぜなら、テキストとする本が共通語で書かれているからです。なかには、特定の土地言葉で書かれた本もありますが、それは筆者の示す土地言葉であって、かならずしも語り手の言葉ではありません。だから、それを覚えて語っても、伝承の語り手が土地言葉を使ったのとは、意味が違いますね。
昔話が生活の中で語られてきたものならば、これからも生活に根付いた言葉で語りつぐのが自然ではないかと考えます。
日常語で語るわけ
わたしがなぜ日常語で語るのか、その理由ををお話します。
昔話は、架空の物語、ファンタジーですが、こめられているメッセージは現実を生きるための生々しいものです。生きる ( 命 ) という重要なテーマを語ろうとしたとき、わたしが心から納得できる言葉は、テキストのままの共通語ではありません。わたしにとって共通語は、学校で習った借り物の言葉で、テレビから聞こえてくる言葉にすぎないのです。
おはなしをほんとうに理解し、くっきりイメージするためには、あたまの中で自分の言葉に翻訳する必要があります。これは、おはなしに限らず、何事についても言えると思います。本で読んだこと、先生に教わったことを、一語一句まる覚えではなくもう一度自分の言葉に置きかえてみるってこと、しませんか?そのことでより理解が深まる経験があると思います。
これが、わたしがテキストを日常語に変えるひとつめの理由です。理解するため、です。
ふたつめは、よりわかりやすく表現するためにわたしが自在に使える言葉は、共通語ではなく日常語だからです。……理解してもらうため、です。
三つめは、わたしがおはなしを語る理由と重なります。
地域の子どもたちにおはなしを語るとき、私はできる限り裸でいたい、着飾ったり鎧を身に着けていたくないと思っています。たがいの垣根をできる限り取っ払って、ともに地域で生活しているその次元で、昔話の世界に入っていきたいと思っています。裸のつき合いで得るものは、聞き手にとっても語り手にとってもとても大きいと思うのです。
それに、おとなはふだんから心に着物を着ているけれど、子どもは薄着です。嘘をついても透けて見えていますよね。その中でひとり服をまとっている自分が、わたしはなぜか恥ずかしいのです。
わたしは、語りの場を 「 愛と信頼の語りの場 」 にしたいなあと考えています。そのような場が、今の子どもたちに、ひとつでも多く必要だと思うからです。そのための 「 日常語での語り 」 です。ふだんから子どもたちの中に入っていって、子どもたちとおしゃべりし、その言葉でお話を語ります。
共通語での語りを否定しているわけではありませんよ。もしわたしが共通語で自在に話す環境にいたら、もちろん、共通語で語ります。共通語が日常語だからです。
日常語で語るには
ここで確認ですが、日常語は自分の言葉です。「 子どもたちが 」しゃべっている土地言葉に合わせる必要はありません。ふだん 「 自分が子どもたちに 」 しゃべっている言葉です。
また、その土地の古い言葉を使って語ることと、日常語で語ることとは別のことと考えます。古い土地言葉を伝えることも大事なことですが、ここで取り上げているのは、ふだんから身近にお話を語るときの言葉としての日常語です。
さて、かんじんかなめのことですが、あなたは、聞き手の子どもたちと、ふだんから世間話をしていますか?おはなし会でお話を語るときだけ声を発してはいませんか?日常語で語るというのは、聞き手の子どもたちとふだんしゃべっている言葉で語るということです。子どもたちとおしゃべりしましょう。道で会ったときの 「 おかえり 」 から始まって、「 今日は遅いねえ 」 「 へえ、居残りってあるん ?」 などなど。少し問いかけをすると子どもたちは喜んで相手をしてくれます。おはなし会で会う人だということで、信頼もしてくれていますから。
テキストの作り方
ふだん使いの言葉だからといって、ストーリーだけ覚えて、そのときどきに口から出てきた言葉で語るのではありません。きちんとテキストを作って覚えましょう。
では、テキストの作り方を説明します。
① 語りたい話をひとつ決めます。日常語の語りに慣れるまでは、できるだけ共通語のテキストを選びましょう。土地言葉でのテキストを使うと、どうしてもその言葉の影響を受けてしまい、自分らしい言葉にするのが難しいのです。
② 文末を、自分が普段使っている語尾に変えましょう。
「……です。」 は、 「……やねん。」 とか、「……だって。」 とか、「……だと。」 とか。その土地によってさまざまなバリエーションがありますね。これだけで、ずいぶん角の取れたやわらかな印象が生まれます。話し言葉らしくもなります。
③ そうやって語尾を変えると、他の部分が不自然に感じると思います。なかでも接続語。これも土地によってさまざまなバリエーションがあります。「 しかし 」 や 「 けれども 」 は、「 でも 」 とか、「 そやけど 」 とか、「 けんどな 」 とか、「 ほやけど 」 とか。「 そして 」 は、「 ほんで 」 「 ほで 」 「 ほいで 」 など。
それらを同じ意味のふだん使っている言葉に置きかえます。
④ これでずいぶん自分らしくなってきました。が、まだ不自然です。ことばには、土地によって異なるリズムがあるからです。そこで、間 ( ま ) やリズムが自然になるように、語順を入れかえます。
⑤ 最後に、語彙を整えます。④ で出来上がったテキストを何度も読み返してみると、ふだんけっして使わない言葉が混じっていると思います。それを、同じ意味の、ふだん使う言葉に置きかえます。
クリックして具体例 ( 『日本の昔話5ねずみのもちつき』小澤俊夫再話/福音館書店刊より ) を見てください。
具体例はこちら
語ってみよう
日常語のテキストはうまく作れましたか?
覚える前に、家族やおはなし仲間に聞いてもらいましょう。自分の話しことばは、自分より、まわりの人のほうが、案外よく知っているものです。
ふだん意識しないので、自分がどんな言葉で話しているかわからないという人もいると思います。そこで、お勧めは、ポケットに I C レコーダーをしのばせることです。そして、自分の聞き手である相手 ( わたしの場合は地域の子どもたちです ) としゃべっているのを録音して後で聞いてみます。いろいろ発見があると思いますよ。
さてさて、極論を言えば、べつにお話を語らなくてもいい。親でも先生でもない近所の大人として、さりげなく子どもたちを見守る存在であればいいと思うのです。それでも、わたしがお話を語るのは、楽しいからです。自分の好きなことで地域の子どもたちとかかわっていきたいと思います。
そして、願わくば、私達の先祖たちがお話にして伝えてきた 「 生きるための知恵 」 を、さりげなくそっと子どもたちに伝えることができれば最高!です。
日常語での語りはそのためのより有効な手段だと考えています。