なぜ日常語で語るのか

わたしがなぜ日常語で語るのか、その理由ををお話します。

昔話は、架空の物語、ファンタジーですが、こめられているメッセージは現実を生きるための生々しいものです。生きる ( 命 ) という重要なテーマを語ろうとしたとき、わたしが心から納得できる言葉は、テキストのままの共通語ではありません。わたしにとって共通語は、学校で習った借り物の言葉で、テレビから聞こえてくる言葉にすぎないのです。

おはなしをほんとうに理解し、くっきりイメージするためには、あたまの中で自分の言葉に翻訳する必要があります。これは、おはなしに限らず、何事についても言えると思います。本で読んだこと、先生に教わったことを、一語一句まる覚えではなくもう一度自分の言葉に置きかえてみるってこと、しませんか?そのことでより理解が深まる経験があると思います。

これが、わたしがテキストを日常語に変えるひとつめの理由です。理解するため、です。

ふたつめは、よりわかりやすく表現するためにわたしが自在に使える言葉は、共通語ではなく日常語だからです。……理解してもらうため、です。

三つめは、わたしがおはなしを語る理由と重なります。

地域の子どもたちにおはなしを語るとき、私はできる限り裸でいたい、着飾ったり鎧を身に着けていたくないと思っています。たがいの垣根をできる限り取っ払って、ともに地域で生活しているその次元で、昔話の世界に入っていきたいと思っています。裸のつき合いで得るものは、聞き手にとっても語り手にとってもとても大きいと思うのです。

それに、おとなはふだんから心に着物を着ているけれど、子どもは薄着です。嘘をついても透けて見えていますよね。その中でひとり服をまとっている自分が、わたしはなぜか恥ずかしいのです。

わたしは、語りの場を 「 愛と信頼の語りの場 」 にしたいなあと考えています。そのような場が、今の子どもたちに、ひとつでも多く必要だと思うからです。そのための 「 日常語での語り 」 です。ふだんから子どもたちの中に入っていって、子どもたちとおしゃべりし、その言葉でお話を語ります。

共通語での語りを否定しているわけではありませんよ。もしわたしが共通語で自在に話す環境にいたら、もちろん、共通語で語ります。共通語が日常語だからです。

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