かつて伝承の語り手たちは、どのような言葉を使って子どもたちに昔話等を語っていたでしょうか。
それは、その人の 「 日常語 」 だったと思います。その時代、その土地で使われていた、またその人の人生を反映した日常の言葉だったのに違いありません。語り手と聞き手がいっしょに生活していて、生活の中で語られるのですから。ふだん語り手が子どもに話しかけているときの言葉、つまり 「 日常語 」 でお話も語られていたでしょう。これからお話をしますよ、というようなちょっとあらたまった感じはあったかもしれませんね。でも、ふだんの言葉だと思います。
伝承の語りの記録を読んだり聞いたりすると、強い土地言葉 ( 方言 ) のように感じられます。けれども、当時はそれが日常語だったのだと思います。時代が下るにしたがって日常の言葉が変化してきただけのことです。言語はそのように時間と空間を超えて多様に変化するものです。
口承の記録にある言葉は語り手の日常語であった、と考える理由は、おじいちゃんおばあちゃんたち語り手が、聞き手である子どもに通じない言葉で語ったはずはないからです。お話はイメージが命ですからね。日常生活で使っている、その言葉で、分かりやすくお話も語られていたはずです。そして、その個性豊かな言葉とともに、お話 ( ストーリー ) が聞き手の記憶に残ったのではないでしょうか。「 お話 」 と 「 言葉 」 と 「 語り手自身 」 と、この三つは分けられるものではなかったはずです。
いま、現代の語り手たちは、どのような言葉でお話を語っているでしょうか。
ほとんどが共通語ですね。なぜなら、テキストとする本が共通語で書かれているからです。なかには、特定の土地言葉で書かれた本もありますが、それは筆者の示す土地言葉であって、かならずしも語り手の言葉ではありません。だから、それを覚えて語っても、伝承の語り手が土地言葉を使ったのとは、意味が違いますね。
昔話が生活の中で語られてきたものならば、これからも生活に根付いた言葉で語りつぐのが自然ではないかと考えます。