貪欲な、あるいは愚かな和尚を、頓智のある、あるいはわんぱくな小僧がやりこめるという形の笑い話群。さまざまな話型があります。くつか紹介しましょう。
「あゆはかみそり」
和尚がこっそり鮎を食べて、小僧に見つかり、「これは、かみそりというものだ」と言い訳をします。あるとき、川をわたっていて、小僧が鮎を見て、和尚に「かみそりがいるので、足を切らないように」と注意します。
「和尚おかわり」
和尚が、便所にかくれてこっそりぼたもちを食べます。同じく小僧が、ぼたもちをこっそり食べようと、便所に行くと、和尚が先に食べています。小僧は、とっさに、「和尚さん、おかわり」といって、持って行ったぼたもちをさし出すという話。
「飴は毒」
和尚が水飴を、毒だといって、小僧に食べさせないでいます。ある日、和尚が出かけているあいだに、小僧は、水飴を全部なめてしまいます。そして、和尚の秘蔵の品物(すずりなど)をこわして、泣いて待っています。和尚が帰って来ると、小僧は、「大事なものをこわしたので、死んでおわびをしようと毒を食べましたが、いっこうに死ねません」といいます。
これらの話の眼目は、優位の者が下の者にやりこめられるという構造、やりこめる者の抜け目なさとやりこめられるものの愚かさ、やりこめ方のおかしさに、あります。なんとも人間臭いテーマですね。聞き手は下の者(小僧)の立場ですから、大人も子どもも共感できるでしょう。ただ、この世界観を認識できるのは、ある程度の人生経験が必要なので、幼い子には向かないと思います。また、とんちが分かる年令でなければなりません。
和尚と小僧譚は、13世紀の『沙石集』や、14世紀の『雑談集』といった文献にも残っています。いわゆる中世ですね。中世は、各村々に小規模のお寺が、急激に林立した時代です。それは今でも続いていますね。今以上に各人はお寺と密接につながっていましたから、急激な変化の時代は、混乱の時代だったともいえるでしょう。たとえば、急に和尚の数が増えると質の低下を招くとか。その中で生まれてきた、生活に密着した笑い話だったといえます。
さて、私たちはこの話を聞いて、とんち以外にどんな面白さを感じることができるでしょう。
語りの森HP《日本の昔話》では、「お経を忘れた和尚さん」、「あちちぷうぷう」、「ぼたもちと阿弥陀さま」を載せていますので、見てくださいね。