昔話のカタログによると、ATU1200~1349が、愚か話で、1400以降にもぽつぽつと愚か者の話があります。つまり150種類以上もの愚か話があるのです。愚か話とは、とんでもない愚かなことをする人を笑う話です。そして、愚か話の中でも、愚か者が複数で登場するのが愚か村話です。
このホームページの≪外国の昔話≫には、「ゴタム村のかしこい人たち チーズ」と「導師、川をわたる」「愚か村の人たち」の再話を載せています。
『世界の愚か村話』(日本民話の会・外国民話研究会編訳/三弥井書店)には、119話も載っているので、ぜひ読んでみてくださいね。ほんとに多彩です。
その解説には、「愚か者を主人公とする笑い話を、実在の村を指名して、その村人たちが実際に引き起こした話として語るものが愚か村話」とあります。
具体的には、イギリスのゴータム村。ドイツのシュヴァーベンやシルダの町。ロシアのヴォトカなどなど。
実在する村名は出て来ますが、話自体は伝説ではなくて昔話です。
はい、復習です。伝説は信じられることを求め、昔話はうそ話、虚構ですね。
つまり、実在の村に仮託しているだけで、ほんとうにあった実話ではないと、語り手も聞き手も分かっています。
その内容は、ファンタジーの形で普遍的な人間の有様を描いているのです。
読んでみると、確かに、バカバカしいほら話なのですが、常識をひっくり返す発想があり、まあまあそうやって生きていけばいいんじゃないのと思えるような、自由さや解放感があります。
『ケストナーの「ほらふき男爵」』(池内紀・泉千穂子訳/筑摩書房)所収の「シルダの町の人びと」は児童書です。ケストナーは、あの『エーミールと探偵たち』の作者ですが、いくつかの再話もあります。ぜひ読んでみてください。
その「シルダの町の人びと」の冒頭に、なぜシルダの人たちが愚かになったのかといういきさつが書かれています。
それによると、実はシルダの人たちはとてつもなくりこうなのです。そのために周りの国々から男たちが呼び出されて難問解決に東奔西走していました。おかげで、シルダの町には男手がなくなってすっかりさびれてしまいます。そこで、女たちに呼び戻されて故郷に帰って来た人たちは、愚かを装うことで、町を再生します。
「とにかくこの世は賢明さが幅をきかしている。ところがどっこい、人を救うのは愚かさだけよ」
「バカじゃないのに、バカなふりをする。これにはけっこう知恵がいる。しかし、おれたちならできようぜ」
という豚飼いの言葉は意味深長です。
グリム童話集の34番「かしこいエルダ」、119番「七人のシュヴァーベン人」も愚か村話です。
『決定版世界の民話事典』(日本民話の会編/講談社)には、実在の村が舞台になることによって、信じがたい愚かさはより滑稽に、だれにでも起こりうる愚かさは他人事として、人びとは心おきなく笑うことができたのだろうとあります。
また、『世界昔話ハンドブック』(稲田浩二編/三省堂)には、住民の愚かさを宣伝することにより、過酷な税を逃れたり、商談や交渉事を有利に運んだともあります。
愚か者を笑うストーリーは、昔話だけでなく、落語や狂言など、古い芸能にもありますね。ヨーロッパの道化師の起源をさぐれば古代エジプトにまでさかのぼるようです。人の心の在り方の根元の所にある何かに深く関わっているようです。これを差別だといちがいにいえない、生きる力のようなものがあると感じます。
愚か村話、けっこう哲学的です。
日本の愚か村話については、こちら⇒