じこていせいのほうそく
昔話には自己訂正の法則があります。自己修正、自己矯正(きょうせい)ともいいます。
昔話は、もともと人間が口伝えによって残して来たものです。語り手は機械ではなく人間ですから、レコーダーのように聞いた通り一字一句そのまま覚えているとは限りません。人によって記憶の能力は異なります。
また、聞いた話を語る(アウトプットする)までの時間によって話の解釈や感じ方が変化します。たとえば、子どもの時聞いたストーリーを30年後に語るとしましょう。その人の30年間での経験や社会状況の変化や精神的成長は、きっと話に影響を与えています。
そのようなさまざまな要因によって、ひとつの話に類話(るいわ)がおびただしく生まれます。けれども、その類話がばらばらになって雲散霧消するのではなくて、これは類話だ、同じグループだといえるのは、不変のものがあるからです。
この不変のもの、核のようなものは、何千年も残り続けるのですが、それはなぜなのか、ということを考えた研究者たちがあります。
ヴァルター・アンダーゾーン(1885―1962)は、現ベラルーシ生まれの民俗学者です。彼は、「語り手は同じ話を何度も、また複数の語り手から聞く。その場合、話はそれぞれ異なる部分はあっても、ある程度ひとつの中心点をめぐってゆれうごいている。そうした相違点はお互いにこすれ合って落ちてしまって、全体としては、長い時代を貫いて不変なものとして残る」と想定しました。これは他の研究者たちも認めています。
フリードリヒ・ライエン(1873―?)は、それを認めたうえで、さらに、「家族やより広い共同体の中で、少数の有能な語り手が伝承を受け継いでいった、そのとき、聞き手である共同体のメンバーは、語り手に誤伝(間違って語ること)を許さなかったことが不変の大きな要因だろう」といっています。聴衆は、同じ話は同じように語ることを語り手に要求するのですね。これは、わたしたちが幼い子に絵本を読むとき、間違って読むと子どもにしかられるというのと同じです。
すると、いいかげんにしか語れない語り手は聞いてもらえないしそのテキストも残らず、淘汰されます。まだ読書が一般的でなかった時代だから、一度聞いただけでも記憶して数年たっても同じように語り返すことができるよい語り手が多くいただろうというのです。たとえばグリム兄弟に話を提供したフィーマンおばさんのように。
とはいえ、多くの語り手は受けとった話を自己流に改作して、その結果物語をそこなうこともあると述べています。耳の痛い話ですね。
マックス・リュティは、以上のことを、次のようにまとめています。
「昔話は才能のある語り手の個性によって伝承され、耳を傾ける聞き手(=受け身の昔話の担い手)によって制御されて、数世紀を経てオリジナルの形をめぐって揺れ動く」
そして、さらに、昔話のもつ様式自体が、自己修正するのだと主張しています。様式というのは語りの森でも学んでいる「昔話の語法」のことです。
現代、昔話は耳で聞かれることはまれです。
文字で読むか映像を見るという形になっても自己訂正はなされるのでしょうか?
長い年月かけて人間の心をつないできたオリジナルの形を知ること、現代の聞き手を満足させること、それが、揺れ動きながらも未来へつないでいくために必要なのでしょう。