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昔話の再話(さいわ)

昔話絵本や昔話本に「だれそれ再話」と書いてあることがよくありますね。この「再話」って何でしょう。

昔話はだれか個人が創作したものではなくて、もともと口伝えで伝えられてきたものです。ですから、語られるそばから消えていきます。けれども、そのような口伝えが、研究者の手によって文字や音声のかたちで保存されています。録音データであったり、それをテープ起こしした翻字(ほんじ)であったり、または聞き書きであったりします。膨大な資料です。
それらの資料を多くの人が読んだり語ったりして楽しめる文章にすることを「再話」といいます。 

「語りの森」では、《日本の昔話》と《外国の昔話》のページで昔話の再話をPDF形式で掲載しています。これらはすべて村上再話です。その元の資料は、各テキストの末尾に「資料(原話)」として明記しています。興味のあるかたは、原話を図書館などで取り寄せて、再話と原比較してみてください。  

さて、私たち現代の語り手が語るためのテキストの面から「再話」を考えてみましょう。

保存されたなまの資料をテキストにはできません。なぜなら、口伝えされた資料の多くは、語り手が日常使っている土地言葉そのままだからです。その語り手と同じ土地で同じ時代に生きた人でなければ、正確に理解することも、またその言葉を使うことも難しいでしょう。
資料によっては、思い出しながらの語りで、不完全なテキストだったりすることもあります。
また、聞き書きのばあいは、土地言葉ではないにしても、調査者の覚書的なものが多く研究には有用でも、そのまま覚えたり語ったりして楽しむには不向きです。

そこで、わたしたちは、これらの資料をより普遍的に多くの人が分かるような文章に整理したものをテキストに選ぶわけです。

再話に使われる言葉としては、最も普遍的なものが共通語(標準語)ですね。「語りの森」では共通語で再話しています。
ただ、私は、語るときにはこれを日常語に解凍して語っています。《日常語で語ろう》を参照してください。逆に日常語で再話してから共通語に再話し直すこともあります。

外国の昔話のばあいは、翻訳された資料ですから、日本語の話し言葉としてこなれた文章に整理しなくてはなりません。

私たちは語り手です。だから、聞き手が確実にイメージできる言葉で語らなくてはなりません。そうでなければ聞き手を物語の世界にいざなうことができないのです。
ところが聞き手は(語り手も)、それぞれ異なった固有の言語生活をもっています。そこから語り手の苦労とよろこびが始まるわけです(笑)

もろもろの苦労と工夫については他の項に譲るとして、最も基本的なことは、口伝えされたものには耳で聞いてわかりやすい独特の言葉の法則(昔話の語法)があるということです。まずはそれにのっとった再話テキストを選びましょう。 

昔話は先祖からの贈り物です。原話の語り手の思いや表現を大切に受けとってつぎへと伝えていくのが、わたしたちの仕事です。再話は、神経を使うとても重要な作業なのです。

逃竄譚(とうざんたん)

「何らかの理由で知らずして鬼あるいは山姥の家に行き、それと知って何かの援助を得て逃亡し、おわれるとなんらかの方法でそれを振り切って無事逃げおおす、という構造の話を逃竄譚と呼びならわしている」 『日本昔話事典』(弘文堂刊)
 
みなさん、このような話に心当たりはありませんか。

たとえば。栗拾いにいった小僧が山の奥深く入ってしまって一軒家に泊めてもらう。そのばあさんが実は鬼婆で、逃げだした小僧をとって食おうと追いかけてくる。小僧が、和尚さまからもらったお札を投げると、お札は大きな砂山になって鬼婆の行く手をさえぎる。また追いついて来るので二枚目のお札を投げると大川になって鬼婆をさえぎる……

そうですね、子どもたちに大人気の「三枚のお札」。ほかにも「馬方山姥」も山姥から逃げますね。「食わず女房」、「油取り」も同じです。

追いかけられる話って、子どもたち大好きです。古今東西を問わず、子どもって鬼ごっこが好きですものね。
 
日本のばあい、多くはこのように、追いかけられるというひとつのモティーフを中心にしてひとつの話が成り立っています。ヨーロッパではどうでしょう。やはり追いかけられるモティーフがあちこちに見つかります。

グリム童話の「みつけ鳥」は変身しながら逃げます。
ケルトの昔話「鳥たちの戦争(オーバーン・メアリー)」はリンゴの切れ端に代返してもらって逃げます。馬の耳の中から櫛を取り出して投げると森になる、などなど。
ヨーロッパの場合は追いかけられるモティーフひとつではなく、ほかのたくさんのモティーフが組み合わさって、長いストーリーになることが多いです。

この追いかけられるモティーフを「呪的逃走」といい、全世界に広がっているそうです。
ババ・ヤガーの勉強会では、研究クラスでこのモティーフを追いかけています。 

 

AT・ATU

昔話の資料を読んでいると、AT番号という言葉が出てきます。これは、昔話の話型番号です。

昔話にはよく似たものがたくさんあります。この類似した話(類話)をそれぞれ集めて、ひとつの話型とみなします。その話型を配列したカタログがあって、その話型番号がAT番号です。カタログを見れば、たとえばこんなことが分かります。 

AT2番は「尻尾の釣り」という話型です。
話の内容は、「熊(狐)がだまされてしっぽを氷の穴に入れて釣りをする。尻尾はすぐに凍る。のちに熊が襲われて逃げようとすると、尻尾が切れる」。
《日本の昔話》の「くまのしっぽはなぜみじかい」は、AT2番ですね。大阪だけではなくて世界じゅうに分布しているのです。

AT327番は「子どもと鬼」という話型。
内容がモティーフ構成で説明されています。それを読むと、「ヘンゼルとグレーテル」「かしこいモリー」「ミアッカどん」「はらぺこピエトリン」などがこの類話だと分かります。 

ところで、ATというのは、カタログを作ったふたりの人物の名前を合体させたものです。

1910年に、フィンランドの民俗学者アンティ・アールネがヨーロッパの昔話をもとに、カタログ『昔話の型』を作りました。それをアメリカのスティス・トンプソンが1928年と1962年に、広く世界の昔話をもとに増補・改訂しました。ふたりの名前の頭文字をとって、ATカタログと呼ばれているのです。 

ATカタログは、『世界の民話25』(小澤俊夫著/ぎょうせい)に部分的に翻訳されています。すべてを日本語で読めないのは残念ですが、これを使えば、たくさんの類話を集めることができます。本書には、『世界の民話1~23』所収の話のAT番号の一覧がのっています。昔話を語る者にとって、類話比較はたいせつです(《ステップアップ》「おはなしの姿」参照)。
これをただ読むだけでも、昔話の世界に深く広くわけいることができます。 

さて、研究が進むにつれ、カタログはさらに増補改訂され充実したものになりました。2005年ドイツのハンス=ウェルク・ウター氏が発表し、ATUと呼ばれます。これは、話の内容はモティーフ構成ではなく、あらすじが文章で書かれています。その翻訳が『国際昔話話型カタログ』(加藤耕義訳/小澤昔ばなし研究所刊)として、2016年年8月に出版されました。

隣の爺譚(となりのじいたん)

日本の昔話には、善良なおじいさんと、対照的に人まねする隣のおじいさんを登場させる構成を持ったものがあって、隣の爺譚とよばれています。

關敬吾『昔話の型』 11「葛藤」のC 「 隣人」 からどんな話型があるか引いてみましょう。

「地蔵浄土」 「鼠浄土」 「雁取り爺(花咲爺)」 「鳥のみ爺」 「竹伐爺(屁ひり爺)」 「舌切雀(舌切り雀・腰折り雀)」 「蟹の甲」 「瘤取爺」 「猿地蔵」 「見るなの座敷」 「猿長者」 「宝手拭」 「親を棄てる」 「大年の客」 「厄病神」 「貧乏神」 「大年の火」 「笠地蔵」 「大年の亀」 「物いふ動物」 
20種類ありました。

これ以外にも、たとえば「取っつく引っ付く」 「天福地福」なども、隣の爺譚の構成を持っています。
 
隣の爺端には、ヴァリエーションがあって、爺―隣の爺、婆―隣の婆、爺―婆の対照になっているものがあります。どれも構成が同じなので「隣の爺譚」と呼びます。人が入れ替わっているだけです。 

また、前半の善いじいさんが成功する話だけで終わるもの、隣のじいさんの失敗だけで終わるものがあります。
 
完全な形では、後半、隣のじいさんが善いじいさんの成功をうらやんでまねをして、失敗します。「だから、人のまねをしてはいけない」という教訓が、話の終わりに付くこともあります。

前半と後半は同じ言葉でくりかえされますが、結末はまったく対照的です。昔話は極端な対照を好む、その好例といえます。→ ≪昔話の語法≫「極端性」
 

隣の爺譚は、日本には、先にあげたようにたくさんあるのですが、世界的には朝鮮半島と中国に少しあるだけで、世界的な分布はないようです。日本の昔話の特色といえるでしょう。
隣人関係を強く意識する日本人の生活意識のなかで、この形式が育ったのではないかといわれています。興味深いですね。
 
語りの森の≪日本の昔話≫に「こしおれすずめ」を載せていますので、どうぞ。

累積譚(るいせきたん)

『国際話型カタログ』によると、ATU2000~2100までの話型が累積譚としてあげられています。
累積譚は形式譚のひとつです。 

形式譚というのは、話の内容にはほとんど意味がなくて、言葉や話し方の面白さが興味の中心である話群を総称していうそうです。よくあるのは、長い話をしてと聞き手にせがまれたとき「天からふんどし」などと話す「長い話」とか、梅の実が次から次と落ちつづける「果て無し話」、落語の「寿限無」のような「長い名の息子」などです。ときには、聞き手に手をつながせて「はなし!」といって放させる「はなし」などもあります。 

累積譚は、登場人物(動物)やエピソードがつぎつぎと鎖のようにつながって続いていく形式の話です。
 
「おばあさんとブタ」「ホットケーキ」などといえばおわかりでしょう。日本の現代の語り手がテキストにする「おはなしのろうそく」(東京子ども図書館)にもいくつか掲載されていて、子どもにも人気です。

これらの話の面白さは、繰り返しの言葉が正確に順序正しく続けられていくところにあります。子どもたちはすぐに覚えて自分たちでも唱えて楽しみます。また、早口言葉のように語って競争することもできます。
 
メインの話にはなりませんが、言葉遊びとして欠かすことのできないものです。 

語りの森ホームページでは、《外国の昔話》のコーナーに「犬を書いて飲む」「ありとこおろぎ」「フライラのひょうたん」「食いほうだいに食ったねこ」を、《日本の昔話》に「くらいくらい」を載せているので見てください。音声も聞いてみてくださいね。
 
 
また、『世界の民話』全36巻(小澤俊夫編/ぎょうせい刊)等から、AT番号をてがかりに累積譚のリストを作りました。興味のある方はどうぞごらんください。

枠物語 ( わくものがたり )

この言葉、聞きなれないかたもおられるかと思います。

Frame Story の訳語。説話集の構成方法のひとつです。全編を統一した物語の中に、たくさんの物語を入れ込んでいます。

たとえば、『千一夜物語』、アラビアンナイトですね。ペルシャのシャフリヤール王が、妻の不実をきっかけに女性不信に陥り、毎日ひとりの娘を宮殿に呼んでは翌朝殺すようになります。街に若い娘がいなくなる。これを憂えた大臣の娘シェヘラザードが、これを止めるために自ら王の妻になります。そして、毎晩ひとつ物語を語り、一番面白いところでやめて、続きは翌日に語る。すると王は、続きを聞きたいがために、翌晩までシェヘラザードを生かしておきます。次の日もまた同じこと、というように、毎日物語を語り、とうとう王の悪習をなおしてしまいます。

そうやってシェヘラザードが語った話が、「まほうのランプ」であり、「シンドバッドの冒険」であり「アリババと四十人の盗賊」・・・なのです。

この、「シェヘラザードがシャフリヤール王に語るという」という枠があって、その中で独立した物語が語られるという構成の物語が、「枠物語」です。

枠物語という構成方法は、インドに起源があるようで、オリエント、ヨーロッパと伝わっていきました。『デカメロン』『ペンタメローネ』『カンタベリー物語』などなど。
 
さて、ホームページの《外国の昔話》掲載の「りこうなまほうの鳥」を思い出してください(『語りの森昔話集1おんちょろちょろ』にも入れています)。鳥がインテゲル王に物語を語り、王が悲しんだら鳥は逃げ去る、という枠の中で、三つの話が物語られていますね。規模は小さいですが、枠物語と考えていいでしょう。
規模が小さいといえば、「愚か村の人たち」の後半も枠物語です。よく使われる構成なのですね。
 
日本の場合では、「百物語」を思い出しましょう。
夜に人々が寄り集い、順番に怪談を語り合います。一話終わるごとに灯をひとつ消していき、最後の話が終わると、真っ暗になる。そのとき、今までの話に登場した妖怪たちが現れる。という遊びです。これはあくまで遊びであって、説話集ではありません。
 
江戸時代に『百物語』(万治2年)という書名の説話集がありますが、中身は必ずしも怪談が集められているわけではありません。遊びに名を借りているといえばいいでしょうか。これは枠物語ではありません。

小さ子の誕生(ちいさこのたんじょう )

昔話のモティーフに、「小さ子の誕生」というのがあります。主人公が小さな姿で生まれてくる話を、私たちはいくつも知っています。「一寸法師」「親指小僧」などなど、洋の東西を問いませんね。
 
日本の場合、古くは『日本書紀』や『古事記』にも、現れます。その場合は、人間であったり神であったりします。

日本の昔話のなかで、彼らは、どんなふうに生まれてくるか、ちょっと思い出してみましょう。
まず、多くは、子どものない夫婦が神さまに祈ってさずけられます。神の申し子です。「神に祈って」とまでいかなくても、欲しい欲しいと願っているとやっと生まれる。
 
どこから生まれてくるのでしょう。もちろんふつうにおばあさんのお腹から生まれてくる者もいますけれど、多数派ではありません。多くは、川を流れてきた桃や瓜の中から、竹の中から、おばあさんの脛(すね)や親指から。ときには死んだ母親のなかから。人というより、やはり神的なものを感じます。
 
どのような姿で生まれてくるでしょう。人間のすがたで。また、動物にすがたを借りる者もいます。たにし、へび、かえるなど、多くは水の世界とかかわりが深く、水神の性格を帯びていたと考えられているそうです。
 
小さく生まれたものが思いがけない成長を遂げるということが、このモティーフを持つ話型の約束事のようです。
 
『日本昔話事典』では、「その小さな形にかかわらず、人並み以上の働きをするということ、そして、美しい妻を持って豊かな幸福な生活をかち得たということが、小さ子の物語の眼目であった」と説明されています。
 

ウリアの手紙

ヨーロッパの昔話では有名なモティーフです。命名は『旧約聖書』から来ています。
 
『旧約聖書』「サムエル記 第2-11」を簡単に説明しましょう。神の意志によって王となったダビデが、罪をおかす場面です。

ダビデ王は、ひとりの美しい女性を垣間見て心動かされ、人妻であると知りながら一夜を過ごします。彼女は、懐妊します。ダビデ王は自分の罪をかくすため、彼女の夫ウリアを呼び寄せ、ウリアの上官であるヨアブに手紙を届けさせます。手紙にはこう書かれていました。「ウリアを戦いの最前線に送り、他の者はみな撤退して、ウリアが討たれて死ぬようにせよ」。結果、ウリアは死に、しかも他の者たちもいっしょに討ち死にしてしまいます。

このように、「ウリアの手紙」とは、手紙の持参者を殺すようにと書かれた手紙のことです。この旧約聖書のモティーフが昔話に取り入れられ、昔話モティーフとなったとき、つぎのようになります。

主人公は、自分を破滅させる手紙(ウリアの手紙)を持ってでかける。とちゅうで、援助者によって手紙が書きかえられ、運命が逆転して幸せを手に入れる。

これを、「ウリアの手紙」のモティーフ、または「手紙の書きかえ」のモティーフといいます。旧約聖書がウリアの死によるダビデ王の罪を語っているのに対して、昔話がいかに主人公中心に語られるかが、よくわかる例ですね。

このモティーフを持つ昔話の話型には、ATU425A「魔女の息子」、ATU462「追放された妃たちと鬼女妃」、ATU910K「製鉄所へ歩く」、ATU930「予言」があります。グリム童話の「三本の金髪を持った悪魔」はATU930です。
 

「三本の金髪を持った悪魔」

ある村の貧しい夫婦に幸運の皮をかぶった男の子が生まれます。主人公です。この子は王の娘と結婚すると予言されます。それを知った王は阻止するために、男の子を殺そうとしますが、失敗します。約13年後、王はこの子と再会します。驚いた王は、再び殺そうと考えます。そして、「この子が着いたらすぐに殺すように」を書いた手紙を男の子に持たせ、后に届けさせます。城への道の途中、男の子は盗賊の家に泊まります。盗賊は、こっそり、「この子が着いたらすぐに姫と結婚させるように」と手紙を書きかえます。翌日、男の子はその手紙を后に届け、王の娘と結婚するのです。

日本の昔話では「水の神の文使い」という話型がそれです。「沼神の使い」ともいいます。こんな話です。

「水の神の文使い」

ある男が沼のそばを通りかかると、美しい女が出てきて、妹に手紙を届けてくれといいます。妹は、もうひとつの沼に住んでいます。男は手紙を受けとってでかけますが、とちゅうで、お坊さんに会います。お坊さんに手紙を見せると、「この男をとって食え」と書いてありました。お坊さんはその手紙を書きかえて男にわたします。男はそれを沼に持っていって渡します。すると、沼の女は、手紙に書いてある通りに、すばらしい金銀宝物をくれました。

この「手紙の書きかえ」のモティーフをより広い意味でとらえると、手紙を書きかえることによって、主人公の運命が変わるモティーフすべてを指すことになります。

「手なし娘」

「かわいい男の子を生んだ」という妻(または夫の母親)の手紙を持った使者が、途中で悪魔(または継母)の手によって「化け物を生んだ」と書きかえられます。そして、「大事に育てよ」という夫の手紙が「追放せよ」と書きかえられ、主人公は苦難の旅に出ます。

この場合は、主人公を救ってくれるのではなく、主人公に試練を与えるためのモティーフになっていますね。
 

世界的に同じモティーフがあります。みなさんも探してみてください。

伝説

古くは「言い伝え」「いわれ」と呼ばれていたもので、英語ではlegend。
昔話が架空の物語であるのに対して、伝説は、具体的な事物と結びついて、真実と信じられてきた口伝えの話です。
ですから、昔話は「むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」のように、時代、場所、人物が不特定に語られますが、伝説では、特定の時代、特定の地域、具体的な人物のこととして語られます。

具体例をみてみましょう。

「松柿の木」(『大和の伝説(増補版)』高田十郎編/大和史蹟研究会)

「磐城村に、松に接がれた柿の木がある。文明19年に、蓮如上人が巡錫の際、この地の家主弥七郎という者に、他力信仰をすすめた。弥七郎は、そこで、松の木に柿を接ぎ、もし弥陀の本願虚妄ならば、この木も空しくなるであろう、と試したところ、りっぱにその木が育って、今のごとくなったのだという。この柿の実をツルして食べると、腹痛がなおるという。」 

これが伝説です。
昔話と比較すると、さらに理解しやすいです。
 
たとえば、川上から流れてきた桃を割ったら中から赤ん坊が出てきた話を、昔話として語れば、ファンタジーですから、聞き手はおどろくことなく受け入れます。昔話の一次元性ですね。こちら→
 ところが、伝説として語れば、これは奇跡です。本当にあるはずがないことが起こったわけですから、だれでもびっくりしますね。桃の中から出てきた子どもは将来有名な高僧か大将になるでしょう。つまり伝説的人物の誕生譚として伝えられるでしょう。 

またたとえば、わたしたちは、「きつね女房」という昔話を知っています。

「狐女房」

助けた狐が娘に化けてやって来る。その娘との間に男の子が生まれる。ところが、正体がばれて、狐は子どもを残して去っていく。

この昔話と同じストーリーの伝説が、大阪府和泉市に残っています。

「信田のきつね」

平安時代、村上天皇の御代、大阪の阿倍野(現)に住んでいた安倍保名(あべのやすな)が和泉の信太(しのだ)の森の狐を助けます。狐は恩返しに保名の家にやって来て妻になります。狐の名前は「葛の葉」。生まれた子どもは「童子丸」。童子丸は成長してりっぱな天文博士になります。この人物が、かの有名な陰陽師、安倍晴明です。実在の人物ですね。 

この「きつね女房」と「信太のきつね」の例でわかるように、昔話と伝説は、同じモティーフや構造を持っていることがよくあります。ひとは土地を行き来しますから、物語もあらゆる土地に伝わります。その過程で、昔話がある特定の土地に根付いて伝説になったり、ある特定の話が、伝わっていくうちに昔あるところのファンタジーになったりしたのでしょう。

伝説は、世界じゅうにあります。ヨーロッパでは、各地に妖精が棲んでいます。その地元の妖精がいて、そこの人たちはその存在を信じています。また、「ハーメルンの笛吹き男」のようにふしぎな男の話が特定の町と結びついて語られたり、湖や城や寺院にはふしぎな出来事が起こり、それが本当のこととして伝えられます。
 
また、伝説には、物事の由来を述べるという性質もあります。先ほどの安倍晴明の誕生譚も由来話の一種ですね。
たとえば、「なぜカバは水の中にすむか」「なぜ太陽と月があるのか」「なぜ男と女があるか」などなど。読んでいると、由来譚は、限りなく神話に近づいていることがわかります。

「これはほんとうにあったことだよ」と伝えられてきた話には、伝説だけでなく神話があります。神話は神さまの世界の話、伝説は人間と人間の時代の話です。
 
昔話、伝説、神話。くっきりと境界線を引けるものではなさそうです。それほど、口伝えの世界は多様で豊かだということなのでしょうね。
語りの森昔話集の第2巻には、土地と結びついた短い伝説「ねむりねっこ」を入れています。伝説というより世間話のような小さな話です。

山姥(やまうば・やまんば)

山の中に棲んでいる女の妖怪。たいていはおばあさんで、山母、山姫などともいうそうです。実在すると伝えられていて、昔話にも登場します。
背がとても高かったり口が耳まで裂けていたりと、おそろしい風貌です。ときには頭のてっぺんにも口があります。

山姥は、人間を害する恐ろしい存在であるだけでなく、人間に恩恵を与える神さまであることもあり、善悪二面性を持っています。
昔話で例を挙げると、前者は「三枚のお札」「食わず女房」「馬方山姥」など、後者は「糠福米福」「姥皮」などがあります。詳しく見ていきましょう。

「三枚のお札」

小僧(子ども)が山の中に入っていくと山姥に遭遇します。山姥の家に泊まって、便所の神さまの助けなどで逃げだします。逃げながら和尚さまからもらったお札(や鏡やくしなど)を後ろに投げると、山や川や火になって山婆の行く手をさえぎり、小僧は無事寺に帰りつきます。山姥は追跡中に命を落とすか、または和尚さんの知恵でやっつけられます。
この山姥は、ものすごいスピードと迫力で追いかけてきます。足が速いのです。
逃竄譚(とうざんたん)の代表的なものですね。
そして、これは子どもを食べる山姥です。

「食わず女房」

男が、飯を食わない女房が欲しいと言っていると、ある日そんな女がやって来て妻になります。ところが米がどんどんなくなっていくので、男が天井からこっそり見ていると、女は頭の口から握り飯を放りこんでは食べます。男が知らぬふりをして別れてくれと言うと、女は男を桶に入れて山へ連れ去ろうとします。男は逃げて難を逃れます。
菖蒲やヨモギの原にかくれる五月の節句の由来譚と、女が蜘蛛になって夜に男の家にやって来て退治されるという「夜蜘蛛は親に似ても殺せ」ということわざの由来になっている型とがあります。
どちらにしてもこの山姥はものすごい大食漢です。
また節句の由来型は「三枚のお札」と同じく足が速い。俊足です。
後者の山姥は、正体が蜘蛛です。

「馬方山姥」

ここでは馬方(または牛方)の積み荷の魚をつぎつぎと強奪する山姥です。ものすごい大食漢で、しかもすごいスピードで追いかけてきます。これも逃竄譚です。馬方が木の上に逃げ、池に映った馬方を見た山姥が池に飛びこんで死んで終わるというものもありますが、たいていは、馬方は山姥の家に逃げ込んでしまいます。そして、機転を利かせて山姥の餅や酒を飲んだあげく、山姥を殺してしまいます。山姥の正体が蜘蛛であったりします。

柳田国男の『山の人生』によると、足が速くて大食いという性質は、実在すると信じられていた伝承上の山姥の性質でもあったようです。

では、善い山姥を見てみましょう。

「糠福米福」

「米福粟福」ともいいます。継子譚です。ATU510、いわゆるシンデレラ話で世界中に分布します。話の冒頭で姉妹がクリ拾いにいきますが、姉(継子)のふくろにはあなが開いていてなかなかクリがたまりません。新しい袋をくれるのが亡くなった生母なのですが、これが山姥だったりします。芝居見物の時に姉に美しい着物をくれるのも生母(または山姥)です。つまりこの山姥は主人公を助ける神のような存在です。

「姥皮」

これもATU510、シンデレラ話のもうひとつの型です。前半は「蛇婿」の話で、困っている父親を助けて末娘が蛇の嫁になります。娘はうまく蛇をやっつけて逃げだしますが、かくまってくれるのが山姥です。じつは父親が助けてやった蛙の化身だったりします。山姥は娘に姥皮をくれて、娘はそれを着て火焚きばあさんになって雇われます。たまたま娘が姥皮を脱いでいるところを長者の息子に見染められ、結婚して幸せになります。

ほかにも「ちょうふく山の山姥」「山姥の仲人」など、幸せを運んできてくれる山姥がいます。

ところで、民俗学では、山の神の民間信仰が説かれます。
農業者にとって山の神は、春になると山から下りてきて田の神となり、秋には山へ帰って山の神となると信じられてきました。
猟師やきこりなど山で働く人にとっては、山の神は怒らせると恐ろしい、山を支配する神であったようです。神ですから、どちらもお祭りをします。
その山の神の零落したのが山姥だという説が有力だそうです。
そういえば、河童は川の神の零落した姿ですね。
どちらも自然の脅威と自然の与える恵みの両方の側面があり、それが山姥の二面性として表れているのでしょうか。

語りの森では、『語りの森昔話集1おんちょろちょろ』に「めしを食わないよめさん」と「へびの婿さん」を掲載しています。ぜひ読んでみてください。
「三枚のお札」は『語りの森昔話集2ねむりねっこ』に掲載しています。