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山の背くらべ

山と山が背比べをした話が、日本各地に残っています。 
これは、その土地に根付いた話で、ほんとうにあったこととして伝えられてきました。だから、昔話ではなく、伝説です。
 
柳田国男の『日本の伝説』に、「山の背くらべ」として、具体例と解説があります。おもしろいので、ご紹介します。日本地図に落としてみたので、参考にしてください。

1、愛鷹山(あしたかやま)と富士山・・・静岡県

むかし、諸越(もろこし)の愛鷹山が、富士山と背比べするために、海を渡ってやって来ました。それを見た、足柄山(あしがらやま)の明神さまが、生意気なやつだといって、愛鷹山をけとばしました。それで、愛鷹山の頭がくずれて、かけらが海にちらばってしまいました。そのかけらを集めて作ったのが、浮島が原だそうです。ほら、富士山の東側の小さな山、あれが愛鷹山です。浮島が原には、自然公園があります。 

2、孝霊山(こうれいざん)と大山(だいせん)・・・鳥取県

むかし、韓(から)の国から、大山と背比べするために高い山がやって来ました。韓から来たので韓山といいます。韓山は、大山より少しばかり高かったので、大山は腹を立てました。大山は、木履(ぼくり:木をくりぬいて作ったくつ)をはいたまま韓山の頭をけ飛ばしました。それで、今でも、韓山の頭は欠けていて、大山よりだいぶ低いのだそうです。韓山は、今は、孝霊山と呼ばれています。 

3、根子岳(ねこだけ)と阿蘇山(あそざん)・・・熊本県

阿蘇山の東南に、猫岳という珍しい形の山があります。むかし、猫岳は、いつも阿蘇山と高さくらべをしていました。阿蘇山は、怒って、ばさら竹の杖で、しょっちゅう猫岳の頭を打っていました。猫岳は、頭がこわれてでこぼこになってしまいました。猫岳は、今は根子岳と書きます。 

4、浅井(あさい)の岡と伊吹山(いぶきやま)・・・滋賀県

むかし、伊吹山の神さま多々美彦(たたみひこ)の姪である浅井の岡の浅井姫は、おじさんの伊吹山と高さくらべをしました。そして、ひと晩のうちにするすると伸びて、伊吹山より高くなりました。多々美彦はたいへん腹を立て、剣を抜いて浅井姫の首を切りました。首は琵琶湖に飛んで行って島になりました。これが竹生(ちくぶ)島です。 

5、鳥海山(ちょうかいさん)と富士山・・・山形県

むかし、鳥海山は、われこそは日本で一番高い山だと思っていました。そころがある日、旅人がやって来て、富士山のほうが高いといいました。鳥海山はくやしくて、腹を立て、いてもたってもいられず、頭だけ遠く海に向かって飛んで行ってしまいました。それが、今の飛島(とびしま)です。

6、飯田山(いいださん)と金峰山(きんぽうざん)・・・熊本県

むかし、飯田山と金峰山が高さくらべをしました。いつまで争ってみても勝負がつきません。そこで、両方の山のてっぺんに樋(とい)をかけ渡して水を流してみようということになりました。すると、水は、飯田山の方に流れて、飯田山の方が低いということになりました。そこで、もう今からはそんなことは「言いださん」といったので、飯田山と呼ばれるようになったということです。飯田山のてっぺんには、その時の水がたまった池が今でもあるそうです。 

7、尾張富士と本宮山(ほんぐうさん)・・・愛知県

むかし、尾張富士と本宮山が背比べをしました。山のてっぺんに樋をかけて水を流すと、尾張富士のほうに流れました。尾張富士が負けたので、ふもとの村の人たちは、年に一度のお祭りに、石を引いて行くようになりました。少しでも山が高くなるようにとの願いからです。今は石上げ祭りといって、8月の第1日曜に行われているそうです。 

8、白山(はくさん)と富士山・・・石川県

むかし、白山と富士山が背比べをしました。山のてっぺんに樋をかけて流すと、白山に向けて水が流れ始めました。それを見ていた白山のふもとの人たちが、急いで、はいていたわらじをぬいで樋のはしに当てがいました。すると、ちょうど同じ高さになりました。それで、今でも、白山にお参りする人は、かならずわらじの片方をぬいで、置いて帰るそうです。 

9、立山(たてやま)と白山・・・富山県

むかし、立山と白山が背比べをしました。すると、立山のほうが、わらじ一足分だけ低かったので、立山は、たいへん悔しがりました。そこで、立山に参詣する人たちは、わらじを持って登るとご利益があるといわれています。 

10、飯降山(いぶりやま)と荒島山(あらしまやま)・・・福井県

むかし、飯降山が荒島山と背比べをしました。すると、飯降山のほうが馬のくつ一足分だけ低かったそうです。そこで、飯降山に石を持って登ると、願い事がひとつだけかなうといわれるようになりました。 

11、本宮山と石巻山(いしまきやま)・・・愛知県

本宮山と石巻山は、大昔から背比べを続けていますが、まったく高さに差がありません。それで、いまでも、石を手に持って登れば少しもくたびれないけれど、小石ひとつでも持って帰ると、罰が当たるといわれています。 

これらの伝説は、柳田国男が、古い文献から探しだしたものです。けれども、日本各地を歩けば、もっとたくさんの山の背くらべが残っていると思います。

山が擬人化されているというより、山には神さまがいて、その神さまはとっても人間的だったのだと感じます。古い土着の信仰から生まれた伝説なのでしょう。

どれもコミカルな話で、山に親しみがわいてきます。
「全国山の背くらべツアー」なんてあれば、行ってみたいです。そして、山をながめながら、山たちの表情を想像して楽しみたいです。 

ところで、これは、日本だけの伝説で、世界的にもにあるのでしょうか?知りたいです。

この記事を書いた後で、八ヶ岳と富士山の背比べの文献を見つけました。語れる形に再話したので、ごらんください。こちら→

愚か村話(おろかむらばなし)@世界

昔話のカタログによると、ATU1200~1349が、愚か話で、1400以降にもぽつぽつと愚か者の話があります。つまり150種類以上もの愚か話があるのです。愚か話とは、とんでもない愚かなことをする人を笑う話です。そして、愚か話の中でも、愚か者が複数で登場するのが愚か村話です。

このホームページの≪外国の昔話≫には、「ゴタム村のかしこい人たち チーズ」「導師、川をわたる」「愚か村の人たち」の再話を載せています。 

『世界の愚か村話』(日本民話の会・外国民話研究会編訳/三弥井書店)には、119話も載っているので、ぜひ読んでみてくださいね。ほんとに多彩です。
その解説には、「愚か者を主人公とする笑い話を、実在の村を指名して、その村人たちが実際に引き起こした話として語るものが愚か村話」とあります。

具体的には、イギリスのゴータム村。ドイツのシュヴァーベンやシルダの町。ロシアのヴォトカなどなど。
実在する村名は出て来ますが、話自体は伝説ではなくて昔話です。

はい、復習です。伝説は信じられることを求め、昔話はうそ話、虚構ですね。
つまり、実在の村に仮託しているだけで、ほんとうにあった実話ではないと、語り手も聞き手も分かっています。
その内容は、ファンタジーの形で普遍的な人間の有様を描いているのです。 

読んでみると、確かに、バカバカしいほら話なのですが、常識をひっくり返す発想があり、まあまあそうやって生きていけばいいんじゃないのと思えるような、自由さや解放感があります。 

『ケストナーの「ほらふき男爵」』(池内紀・泉千穂子訳/筑摩書房)所収の「シルダの町の人びと」は児童書です。ケストナーは、あの『エーミールと探偵たち』の作者ですが、いくつかの再話もあります。ぜひ読んでみてください。 

その「シルダの町の人びと」の冒頭に、なぜシルダの人たちが愚かになったのかといういきさつが書かれています。
それによると、実はシルダの人たちはとてつもなくりこうなのです。そのために周りの国々から男たちが呼び出されて難問解決に東奔西走していました。おかげで、シルダの町には男手がなくなってすっかりさびれてしまいます。そこで、女たちに呼び戻されて故郷に帰って来た人たちは、愚かを装うことで、町を再生します。
「とにかくこの世は賢明さが幅をきかしている。ところがどっこい、人を救うのは愚かさだけよ」
「バカじゃないのに、バカなふりをする。これにはけっこう知恵がいる。しかし、おれたちならできようぜ」
という豚飼いの言葉は意味深長です。

グリム童話集の34番「かしこいエルダ」、119番「七人のシュヴァーベン人」も愚か村話です。

『決定版世界の民話事典』(日本民話の会編/講談社)には、実在の村が舞台になることによって、信じがたい愚かさはより滑稽に、だれにでも起こりうる愚かさは他人事として、人びとは心おきなく笑うことができたのだろうとあります。

また、『世界昔話ハンドブック』(稲田浩二編/三省堂)には、住民の愚かさを宣伝することにより、過酷な税を逃れたり、商談や交渉事を有利に運んだともあります。
 
愚か者を笑うストーリーは、昔話だけでなく、落語や狂言など、古い芸能にもありますね。ヨーロッパの道化師の起源をさぐれば古代エジプトにまでさかのぼるようです。人の心の在り方の根元の所にある何かに深く関わっているようです。これを差別だといちがいにいえない、生きる力のようなものがあると感じます。 

愚か村話、けっこう哲学的です。

日本の愚か村話については、こちら⇒

トリックスター

昔話には、いたずら者・ペテン師が活躍する話がよくありますね。必ずしも道徳的ではなく、だましたり詐欺まがいのことをして、痛めつけられたり、逆にうまくいったりします。
日本の昔話の「寝太郎」がそうですね。寝太郎型の「桃太郎」もそうです。
このような存在を、トリックスターといいます。

≪外国の昔話≫で紹介したポルトガルの昔話「ねこのしっぽ」の主人公の猫もその一人です。
猫といえば、ペローの「長靴をはいたねこ」の猫も、トリックスターです。貧しい粉屋の息子(主人公)を助けて、お姫さまと結婚させます。そのときの方法は正攻法ではなく、あらゆるペテンを使います。 

明鏡国語辞典(大修館書店)にはこうあります。

「神話・民話などに登場する、いたずら者。秩序と混沌、文化と自然、善と悪など対立する2世界の間を行き来し、知恵と策略をもって新しい状況を生み出す媒介者。」

日本の笑い話の主人公、吉四六さんや、彦一、話型「和尚と小僧」の和尚をやっつける小僧などもトリックスターです。
笑い話で終わればいいのですが、「俵薬師」のような日常社会で考えればかなり悪質な、悪戯が過ぎる話もあります。
 

アフリカの昔話では、うさぎやクモがいたずら者として登場します。
北米の原住民のあいだでは、ワタリガラスがトリックスターである昔話がたくさん伝わっています。ワタリガラスはトリックスターでもあり、トーテムでもあります。神ですね。
天の火を盗みに行くうさぎ。これもトリックスターです。地上とあちらの世界の仲介をして火をこの世にもたらします。ただのいたずら者とは言えず、英雄であるとも考えられます。

そう考えると、一口にトリックスターといってもピンからキリまであるといえるでしょう。

河合隼雄氏によると、グリム童話「忠実なヨハネス」のヨハネスもトリックスターです。ヨハネスは、主人のために心を尽くし、自分の命まで投げ出して主人の願いを叶えさせます。彼の心情を想像するととても深く感動するし、重い話の印象があります。けれども、彼のすることは、「だまし」です。変装して王女をだまして誘拐しています。そして、結果として、「天の火を盗んだうさぎ」と同じく、価値の転換(=主人公の幸福、成長)を招いています。
また、主人公は王さまですが、王さまはヨハネスの言うとおりにするだけでよく、脇役のヨハネスこそが主人公に見えます。題名も「忠実なヨハネス」ですね。

河合隼雄氏は、『昔話の深層』(福音館書店)の中でこのように言います。

「われわれも心の中にトリックスターを持っている。われわれが新しい創造活動を遂げようとするとき、心の中でトリックスターのはたらきに身をゆだねることが大切である。しかし、問題はトリックスターの破壊力が強いときは、それは古い秩序を壊すのみでなく、新しい建設の可能性まで根こそぎ奪ってしまいそうに感じられることである。われわれはそれがたんなるゴロツキの破壊者か、創造的な英雄なのか見分けることができないのである。」

このことは、昔話を語るとき、違和感のある人物をどう考えればよいか、ヒントを与えてくれると思います。

じつは、「ジャックと豆の木」のジャックもトリックスターなのです。ジャックは巨人の財産を盗む泥棒ではないか、だから語れないという声を聞きます。が、彼が善悪を越えた創造者トリックスターだと考えると、この話が時代を越えて残ってきた理由が分かります。なぜ子どもが支持するのか、なぜ私たちは語っていてスカッとするのか(笑)ということが分かります。
「われわれが新しい創造活動を遂げようとするとき、心の中でトリックスターのはたらきに身をゆだねることが大切である。」ということです。
 

『決定版世界の民話事典』(日本民話の会)にはこうあります。

「おそらく、トリックスター話は、それを語り伝える人たちが、胸の中に抱いている反抗心を吐き出す安全弁として機能してきたといえるでしょう。」
 

トリックスター話に限らず、心の中にある負の部分の「安全弁」として、大人も子どもも、語り手も聞き手も昔話に興じることは、とても重要だと思います。
 

マックス・リュティの言葉を思い出します。「昔話というガラス玉のなかに世界がうつっているのである」といっていましたね。→昔話の語法・含世界性
 

心理学者のユングはトリックスターを「未分化な人間の意識の模写」といい、人類学レヴィ・ストロースは「人間が世界を把握するために用いる基本的カテゴリーの対立を仲介し、世界についての統一的認識を与えるもの」といいます。

興味を持たれたかたは、『道化の民俗学』(山口昌男/岩波現代文庫)がおすすめです。