かつて昔話が語られていた社会環境を想像すると、「家族」といえば、大家族であり、共同体としての家族だったと考えられます。人びとは、農作業や牧畜、養蚕など、さまざまな仕事を家族を核にして行ってきました。ところが、昔話に登場する家族は、大家族とは言えません。
「仙人の教え」の主人公の息子は、母親とふたり暮らしです。「灰かぶり」の主人公は、母親がなくなって父親とふたり暮らしになり、そこへ継母と姉妹ふたりがいっしょに暮らすことになります。五人家族ですが、それでも核家族です。「ももたろう」は、おじいさんとおばあさんとの三人家族です。
そういえば、昔話には、叔父さんや叔母さん、いとこ、甥、姪ってほとんど話題にならないよね。それに、三世代同居っていうのもあまりないよね。どうしてなのかなあ。
リュティは、この理由について、ふたつのことを考えています。 まず、ひとつ目を紹介します。
リュティ先生いわく。
「小家族に限定することで、昔話には確固とした枠組みと簡素で分かり易い構成が与えられる。と同時に、小家族への限定は、昔話に鋭い輪郭やスリムな姿形を付与する一連の特徴にも適合する。」by『民間伝承と創作文学』
小家族なので、登場人物の数も少ないし、人物間の関係も複雑にはなりませんね。だから、枠組みも構成も単純で分かり易くなります。分かり易いということは、耳で聞く物語としては必須条件ですね。
ところで、「昔話に鋭い輪郭やスリムな姿形を付与する一連の特徴」とは、何のことかわかりますか?
昔話の抽象性だ! 鋭い輪郭を好むとか、明確なすじを好むとか、勉強したよね。つまり「小家族」も抽象性の現れのひとつなんだ!
そうですね。
では、リュティの主張するもうひとつの理由をみてみましょう。
リュティ先生いわく。
「調和ではなく、緊張、対決、葛藤が、昔話の家族集団では優勢である。自然―動物、植物、星―は、昔話の主人公を一般的に迎え入れるのに対し、主人公は自分の家族空間では脅かされている。昔話の中心人物、つまり、読み手や聞き手がいち早く自己と同一視する中心人物は、家族のふところの中でよりも、自然や宇宙のふところで自分が大事にされていることを知る。」by『民間伝承と創作文学』
昔話の中で、主人公にとって家族というのは、自分をあたたかく守ってくれる存在ではなく、むしろ、いつも何かしらの緊張を強いてくる存在だというのです。そして、主人公の味方をしてくれるのは、自然であるというのです。
日本の「手なし娘」では、継母が娘を殺させようとするし、娘の手を切りおとすのは実の父親だ。グリム童話の「金の鳥」では、ふたりの兄さんたちが主人公をだまして殺そうとするよ。
森や山に逃げこんだり、くまやきつねに助けられたりするのは、自然に大事にされているってことなのかな?
「自然」についてはもう少し複雑なので、のちほど考えることにして、まずは「家族」のなかでも「子ども」という存在を、昔話はどう扱っているか、次回、詳しく具体的に見ていきましょう。