昔話の形式意志

ここで、昔話が語られる場を想像してみましょう。たとえば、おばあさんが孫に語るとき、深い愛情をこめて語ったことは容易に想像できますね。そのとき、おばあさんは、わかりやすく語ったはずです。耳で聞いていてストーリーがよくわかるように。

耳で聞くということは、時間の流れにのって聞くということです。音楽と同じです。発せられるあとからあとから消えていく言葉。だから分かりやすく伝えるためには、独特の工夫が要ります。そうして独特の形が作られていったのです。

形、つまり姿、形式です。

おばあさんは、このような形で語ろうという意志をもって語った。愛する孫にわかりやすいような形を工夫した。
これを「形式意志」といいます。

昔話を主語にしていいかえれば、「昔話は形式意志を持っている」ということになります。

耳で聞いてよくわかるような形で語ろうとするってことかな。

そうです。  たとえば「くりかえし」。
昔話では、同じ場面は同じ言葉でくりかえします。同じことがくりかえされる、しかもそのたびに同じ言葉で語られる。そうするとイメージが定着します。つまりわかりやすいのです。
さらに、わかりやすいだけではないのです。くりかえしは、人間の基本的な喜びでもあるのです。

 リュティ先生いわく。

「同一のものの反復は不変性と信頼性の印象を強めるが、それはそもそも叙事詩的様式がよびさますものである。聞き手はつかのまのものの背後に不変なものを感じる。昔話のなかでも、かなり長い部分が一言一句かわらずくりかえされることがある」

「不変性と信頼性」 ちょっと難しい言葉ですね。これは、くりかえされることで、世界は変わらないと感じさせること、いい加減なことは語っていないと感じさせることです。
「つかのまのものの背後に不変なものを感じる」 これは、事件は移っていっても、基本的なものは何も変わらないと感じることです。
 このことを小澤俊夫先生は、「子どもはもう知っているものとまた出会いたがっている」という真理を引きあいに出して説明されます。たとえば、幼子がいつも手放さない安心毛布。絶対にすてさせないボロボロになったぬいぐるみ。あるいは、母親のふところ。子どもは、何度も何度もそこへもどっていっては、自分のアイデンティティを確かめているのです。
もういちど出会うことで魂に安らぎを覚えるわけです。絶対的な安心感ですね。帰るところがあるから、遠くへ出かけていって新しいものと出会うことができるのではないかと思います。
「繰り返し」は、そういう人間の基本的な欲求にこたえているわけですね。

同じ場面は同じ言葉で語る。たしか昔話の「固定性」だって学んだよ。いかにも昔話らしい表現だってことだったね。じゃあ、なぜ昔話では同じ場面を同じ言葉でくりかえすのかっていったら、聞いてわかりやすいことと、それが基本的な喜びだってことなんだね。

そして、 同じ場面を同じ言葉で語ることができるのは、それぞれの場面が孤立しているからなのです。各場面がおたがいに影響を与えていないのです。もし孤立していなかったら、「今度もさっきと同じことが起こりました」で終わってしまいます。
でもそれではお話がおもしろくありませんね。一回一回初めから語ることで、耳から入った言葉がきっちりイメージできて、迫力のあるストーリーが楽しめるのです。
 
ただし、リュティは、「外的孤立性」といいます。一つひとつのエピソードは殻にとじこもっていて外見上は孤立しているのです。けれども、それらを貫くひとつの意志があるのです。だから、外的には孤立しているけれども本当には(内的には)孤立していないのです。前回の「自己への判決」を思い出してください。
 
さあここまでくれば、「普遍的結合の可能性」まであと一歩です。

え~ん。またむつかしい言葉だよ~

がんばれ~~

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