エピソードの孤立性 2

ヨーロッパの昔話を読んでいると、結末部分でびっくりするような判決が言い渡されることがあります。「自己への判決」と呼ばれるモティーフです。 

たとえば、グリム童話の「がちょう番の娘」。

王さまは悪い腰元に、「自分の主人の着物をうばって主人になりすまし、主人の婚約者と結婚した女がいる。こんな女にはどんな裁きをくだすのがよかろうな」とききます。
すると腰元は、「そんな女はまっぱだかにして、内側にくぎを打ち付けた樽の中に放りこみ、二頭の白馬にひかせて道を引きずり回して殺すのがいちばんです」と答えます。そして、王さまは、そのとおりに腰元を罰するのです。

あれれ? 主人の着物をうばって主人の婚約者と結婚したのは、ほかならぬその腰元じしんじゃないか。自分のことだって気づかないのかな?

そうなのです。腰元は自分のしたことを忘れてしまったのでしょうか。
いえ、そうではなくて、エピソードが孤立して語られているだけのことなのです。過去の行為は行為として孤立しており、判決の場面は判決の場面として孤立している。
 でも、そのふたつのエピソードは、てんでばらばらなのではありません。腰元が先にやった行為は残酷です。そして、その行為に対して腰元がくだした判決も残酷です。ですが、妥当な判決です。腰元は自分自身の行為に厳罰をくだしました。これこそが、ドラマの面白さです。しかもこれは、人生を考えるうえで、すごく哲学的なことだと思いませんか。
 
「自己への判決」は、現実的に考えるとありえない。けれども、昔話はそれを語りたい。その人生哲学を語りたいのです。だから、エピソードを孤立させるのです、孤立させないと語れないのです。
ここに、昔話の形式意志があります。

 リュティ先生いわく。

「この状況での魅力はまったくのところ、この悪い女が厳密に自分自身の犯罪に対して判決をくださなければならないという、まさにその点に存する。昔話だけがあえて、事件のとおりの質問をすることができる。なぜならば昔話にとっては、質問されたものがその質問を孤立的に把握し、以前の挿話と比較してみないということが自然だからである。これを可能にしているものは、ただ昔話の構造全体、昔話の、あらゆるものに浸透している孤立的様式だけである。昔話にこの効果をあたえているものは拙劣さや不器用ではなくて、高度な形式の洗練である」

「高度な形式の洗練」。「形式」というのは、昔話の姿、昔話のかたちのことです。

腰元が自分のことだと気づかないのは、語り手が無神経だったり無能力だったりするからではなく、そのような孤立的な語りかたを洗練させてきた成果だというのです。

「自己への判決」の古い例をひとつ紹介しておきましょう。
16世紀半ば、イタリアのストラパローラが著した『愉しき夜』はヨーロッパ最古の昔話集ともいわれています。そのなかに、「ビアンカベッラ」という手なし娘の話があります。
最後の場面で、主人公ビアンカベッラの姉サマリターナが、王に、「今お聞きになったような重大な罪を犯した者は、どんな刑罰をあたえるのがふさわしいでしょうか」と尋ねます。
すると、悪いお妃が、王の返事を待たずにこういいます。
「熱いかまどに放りこんだって、罰としては軽いくらいでしょう」
そして、その通りの罰が与えられるのです。
同じく『愉しき夜』に載っている「美しい緑の鳥」という有名な話にも、自己への判決のモティーフが劇的な効果をもたらしています。
『愉しき夜』は平凡社から長野徹訳で出ているので、読んでみてください。

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