すじの孤立性

話のすじ、つまりストーリーの語り方も、人物や事物の孤立性を高めています。

抽象性のところで、昔話のすじはまっすぐ一直線に進むということを確認しましたね。ところが、もしも、おばあさんが洗濯に行く川で、いつも近所のおばあさんとおしゃべりしたり、川向うの茂みに住むカワウソがちょろちょろ顔をのぞかせたり、川に橋がかかっていて、おばあさんがときおり橋を渡って町に買い物に行ったりと、ストーリーとは関係のないことを語ったら、この川には奥行きが出ます。おばあさんの生活も見えてきます。

けれども、昔話は、そのような周囲のことは語りません。重要なことだけ、すじだけを一直線に語ります。そうすることで、川もおばあさんも周囲の環境から離れます。そう、孤立化するのです。

 リュティ先生いわく。

「昔話のすじの記述もまた孤立化のはたらきをしている。その記述の仕方は純粋に動作だけをのべるのであって、こまかい描写はすべて放棄している。その記述は昔話のすじの線をしめすだけで、すじのおこなわれる空間は感じさせない。森や泉、城、小屋、両親、子供、兄弟姉妹などは、それが話のすじを規定するばあいに名をあげて述べられるだけである。これらの森や泉などが環境を形成することはない」

また、たとえば、「馬方山姥」で、山姥に「馬の足一本よこせ」と追いかけられたとき、馬方は足を一本ぶった切って後ろへ投げます。
このとき、「馬の足を切った」と言うだけで、血が流れたとか、馬が苦しんだとかの描写はいっさいありません。動作だけを述べて、細かい描写は放棄しています。

細かい描写がないから、昔話は聞く人にはっきりした印象を与えるんだね。

そうです。そして、一見残酷なすじも描写が残虐でないから、聞く者の心にショックをあたえません。鬼ごっこのスリルを楽しめるのです。図形的に語るということを「平面性」のところで考えましたね。これは、孤立性の原理で成り立っているのです。

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