昔話では物も人物も奥行きを持ちません。肉体的な奥行きだけでなく、精神的な奥行きもないのです。
現実の世界では、ひとりの人間の中に相反する性格が複雑にからみあっていて、その葛藤があるものですが、昔話では、それがない。いいお爺さんは、ぜったいにいいお爺さん、悪いお爺さんは、ぜったいに悪い。これは、正直な性格といじわるな性格をふたりの人間に分け与えているのです。
「舌切り雀」のおじいさんとおばあさん、「瘤取り爺」「花咲爺」「にぎりめしころころ」のふたりのお爺さん、グリム童話「ホレばあさん」のふたりの娘。グリム童話「灰かぶり」の主人公とふたりの姉。具体例はいくらでも思いつきますね。
そして、そのような性格は、言葉で説明するのではなくて行動で示されます。というのは、精神的なことも、ストーリーの上に行動として平面的に並べられるのです。
そして、悩むこともない。人物は、考えこんだり悩んだりせずに行動します。つまり、内面がストーリー上の行動であらわされているのです。
リュティ先生いわく。
「感情や性質はあるひとつの平面に投影され、その同一平面にほかのすべてのものも投影されている」
善人と悪人にバチッと区別があるんだね。だから、わかりやすいんだ。
それに、ストーリーや場面がきちっとイメージできれば、登場人物の心の中はいちいち言葉で説明しなくてもいいんだ。だって、聞き手は自分自身が登場人物になって、考えたり心を動かしたりするからね。
あ、そうか、ストーリーは語り手に、心は聞き手にあるんだ!
ところで、「外的刺激」って、なんのこと?
昔話の登場人物には精神的な奥行き(=内面)がないので、前へ進むには外からの刺激、つまり外的刺激が必要です。「外的原動力」といってもいいでしょう。
たとえば、贈り物、課題、忠告、禁令、困難、幸運なチャンス、などなど。
そして、精神的な成長を物語ろうとしても、主人公は内面を持ちません。そこで、人物の性格が行動で示されたのと同じように、心の成長は旅というストーリーであらわされるのです。
リュティ先生いわく。
「昔話の主人公は本質的なものと出会うためには旅に出なければならない」
この旅は、まっすく前に向かって進んでいく旅だ。
いい言葉だなあ。人生だって旅だもの。
登場人物の行動で、イコール内面を感じられるし、話の筋にもなっているということのようですね。
ほんとに、昔話は耳で聞いて分かるようによくできていますね。
それにしても、リュティ先生のお言葉は、難しい~~
わたしには、まるで英語と日本語の対訳のように見えます(笑)
o(^▽^)oo(^▽^)oo(^▽^)o
内面は聞き手側にあるのね~