物が立体的に描かれないのと同じように、人物や動物も肉体的な奥行きがありません。
リュティ先生いわく。
「 われわれはその肉体の奥行きや立体性を見ているのではなくて、ただ表面だけを見ている。 」
たとえば、「手なし娘」が手を切られる場面では、表面的に手がなくなるだけで、血も流れないし激痛で転げまわるわけでもありません。父親に手を切られるという仕打ちに、精神的な苦しみを訴えることもありません。馬方は馬の脚を切って投げますが、馬はそのまま走りつづけます。昔話ではそのようなシーンに枚挙のいとまがありません。ん。
これは、人物や動物が、まるで切り紙細工のように図形として表現されているのです。もちろん、聞き手が頭の中で切り紙細工を見ているというのではありません。聞き手は、ストーリーに必要な程度にちゃんとイメージして聞きます。でも、もし立体的に肉体的に描写されていたらどうでしょう。聞き手はそちらに気を取られ、ストーリーに集中できませんね。
リュティ先生いわく。
「 昔話の登場者はあたかも紙で作った図形のようで、好きなように切りとってもべつに本質的変化が生じるものではない。原則的にいって、このような傷害を受けても肉体的、精神的苦痛は表明されない。 」
こういう切ったりする場面があるから、昔話は残酷だっていう人がいるんだね。けど、けっして残虐には描写しないんだ。もしこれがテレビなんかの実写だったら見ていられないだろうけどね。図形的に語っている限り残酷には感じられないんだね。とくに子どもはそうだよ。ストーリーのなり行きに集中しているからね。
登場人物が涙を流す場面があります。それは、悲しみや悔しさや喜びを表すためではなく、話のすじに必要だから涙が流れるのです。血もそうです。傷の深さ痛さを表すために血が流れるのではありません。涙も血も特定の役割があって流れるのです。
図形的に語る。つまり肉体的奥行きがない語りかたをするということだね。それが昔話の特徴「平面性」があらわれているってことなんだ。なるほど~。
図形手的に語る、切り紙細工という説明が、最初イメージできなくて、やったこともない紙相撲の様子が頭の中に出てくるばかりで困りました(笑)
今ならばやっとわかります。
やっとですが(笑)
「馬方やまんば」で。。。
ペラペラの紙の馬 → 足を切っても血は出ない → 何本切ってもこけない → 机の上に寝かせてみるといつまでも走ってる
みたいな感じが浮かんできて、語法ってよくできてるなと思います。
厚紙のパズルっていうのが子どものころあったんですが、(お道具箱に入ってたような…)これらはまさに奥行きがない!
で、視覚的にこれ以上明確なものはないよね、という感じで受けとめることができました。
語るときには、「足から血が出ないの?」「足切って走れるの?」とか思う必要は全くないという証明をもらった気持ちで、自信をもって語れますね。
まだ、この話は覚えてませんが…(笑)
ジミーさん
コメントありがとうございます。
図形的にっていうのは、昔話の語法の中でもわかりにくいところかなと思います。それを切り紙細工で説明したのは、さすが、小澤先生ですね~
切ったら血が・・とか、語り手が引っかかってると、子どもも引っかかるんですね。逆に、子どもが引っかかりそうになっても、語り手が自信をもって知らん顔で語れば、子どもはちゃんとついてくる。それが、対面の語りの良いところですね。