▲TOPへ戻る

うんちく池

昔話の語法

郁

 昔話をたくさん読んでいると、創作の文学とはちがった独特の表現方法があることに気づきます。
 昔話は、耳で聞いて語りつがれてきたので、耳で聞いてわかりやすい 「 言葉の法則 」 を持っているのです。また、いかにも昔話だなあと感じられる 「 語り口 」 や、昔話らしいストーリーの 「 構成 」 を持っています。それらを 「 昔話の語法 」 と呼びます。
 昔ばなし大学では、この昔話の語法をさんざん学びますが、なかなか難しい。それで、ごいっしょにここでおさらいしてみたいと思います。
 というのも、おはなしのテキストを選ぶとき、語るとき、再話するときに、よりどころとなるのが 「 昔話の語法 」 だからです。

 『 昔話の語法 』 小澤俊夫著 ( 福音館書店刊 ) と、昔ばなし大学基礎コースを受講したときのノートをもとにまとめました。
  なるほ  では、いってみよう~~~!

 抽象的様式


 私たち現代人は、文学 ( 文芸といってもいいかな ) は本のかたちで読むものと思っていますね。昔話もそうです。たくさんの昔話本が出版されています。けれども、本ができるずっと以前、文字ができるずっと以前から、人々は物語を楽しんできました。読むのではなく、耳で聞くという方法で楽しんできたのです。いわゆる 「 口承文芸 」 です。
 昔話はもともと口承文芸のひとつです。文字で読むために書かれた文学ではありません。耳で聞き、口で伝えられてきました。

 昔話って、絵本もあるし、紙芝居もあるし、ビデオだってある。人形劇にもなってるし。でも、もともとは耳で聞くだけだったんだ。おばあちゃんに、ふとんの中で話してもらったりしたんだね。それは今でもあるよね。

 昔話は、それが語られているあいだだけ存在します。語り手が 「 はい、おしまい 」 といったら終わります。そして、言葉は、本の中に文字として固定されているのではなく、語り手の口から次々と発せられて、時間の流れにそって消えていきます。つまり本と語りとでは言葉の伝達方法がまるっきり違うのです。当然言葉の使い方が変わってきます。昔話は、耳で聞いてわかりやすく、心地よく、語られなければなりません。
 耳で聞いてわかりやすく、心地よく。語り手たちのその努力の過程で形作られてきたのが、昔話の抽象的な様式です。文字による文学が写実的具象的な様式をもつのに対して、昔話は抽象的様式で語られます。

 具象 ⇔ 抽象って考えたらわかりやすいんだね。抽象的ってのは、写実的ではない、リアルでないってこと。読む文学が写実的なのに対して、聞く文学は抽象的なんだな…。美術だったら、モナリザとピカソの泣く女。高村光雲と太陽の塔。のようなものかな。どちらも美しいし、人間を描いているよね。

 では、文学においての抽象と写実を実感してみましょう。昔話と創作文学を比較します。
 まずは人物の描写。グリム童話と安房直子とドストエフスキーを比べます。具体例 →
 つぎは雪の描写です。日本の昔話と新美南吉と川端康成。具体例 →
 

 リュティ先生いわく。

 「 抽象性は、メルヒェンの様式の本質的特性をもっとも総括的に示す概念なのである。すなわち、たんに名をあげるだけという語りかた、小道具の鋭い輪郭線、せまい、決然たるすじの線、極端な対照を好むこと、極端性全般を好むこと、定式性、実態を抜くこと、孤立化、鉱石化等。 」

                                     ( 以下のリュティの引用すべて小澤俊夫訳 )

 う~ん。じゃあ、昔話のどのあたりが 「 抽象的 」 なのか、もっと詳しく知りたいな !

 抽象的様式は、一次元性や平面性、孤立性などの性質として表れています。
 では、具体的に見ていきましょう。耳で聞いてわかりやすいための表現様式だってことだけはいつもわすれずに。
 

 一次元性


 昔話や伝説には、小人や鬼婆や巨人がよく出てきます。日常の世界ではないあちらの世界の住人です。この 「 あちらの世界 」 のことを 「 彼岸 」 と呼びます。「 異界 」 ともいいますね。それに対して、「 こちらの世界 」 を 「 此岸 」 と呼びます。
 昔話の一次元性とは、昔話では彼岸と此岸のあいだに境界がないことです。彼岸と此岸が同じ次元にあるのです。
 現実の私たちの世界では、もしも目の前に魔女が現れたら、びっくり仰天して恐れおののきますね。たとえそれが善い魔女だったとしても、存在自体に驚くわけです。ありえない現象ですから。でも、昔話の主人公は、魔女に出会っても、いきなり蛙に話しかけられても、ふつうに会話します。言葉が通じています。

 なるほど、そう言われればそうだ。具体例→
それって、子どもの世界観と同じかも。ぼく、ある年齢になったとき、愛するぬいぐるみが自分で話しもしないし動きもしないことに気づいて驚いた記憶がある。子どもって、犬とかタンポポにもしきりに話しかけるよね。次元の違いを感じないんだな。

 リュティ先生いわく。

 「昔話の此岸者は、彼岸者のなかにべつな次元を感じる感情をもっていない。」


 そんな昔話に対して、伝説では、主人公はふたつの世界の次元の違いをはっきり感じとります。彼岸は、日常生活の身近にあって、でも精神的には断絶しています。だから、裏の池の中からいきなり頭が三つある大蛇が顔を出したら恐怖におののき、本当にあった恐ろしい話として、その池のことが語り継がれるのです。
 伝説では彼岸者はすぐ近くに潜んでいますが、昔話では、彼岸ははるか遠くにあります。はるかに遠いところにいるけれども、精神的な断絶はないのですね。
 というのは、精神的な断絶がないから、彼岸を表すのに地理的な距離を使う。そして、どんなに遠いところにあっても、かならず到達できます。別世界ではないということです。

 う~ん。たしかに、「 行くが行くが行くと 」 っていうなあ。で、けっきょく鬼ヶ島まで行ってしまうもんな。でも、その鬼って、まるでただの盗賊かこわいおっちゃんみたいだもんな。異界の雰囲気なんてぜんっぜん持ってないもんね。具体例→

 リュティ先生いわく。

 「 昔話は精神的に区別されたものを、一本の線のうえに投影し、内的なへだたりを外的な距離によって暗示する。 」

 ううむ。これって、昔話の平面性のあらわれでもあるよなあ。