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うんちく池

昔話の語法

 お休み処 また


  孤立性の理論、感動的ですよね。
  語法は哲学ですね~。
  ここで、なぜ昔話の語法を学ぶのか、ちょっと立ち止まって、あらためて考えてみましょう。
 語り手の立場から考えます。
 
 私たちの多くは、書いたテキストを覚えて語る「現代の語り手」です。だから、テキストという形のあるものに束縛されます。それも、自分が書いたのではなくて他人の書いたテキストです。伝承の語り手が、自分がかつて聞いた話を自分の文体で語るのとは、大きな違いがあります。
  わたしたちは、他人の書いたテキストを自分のものにすることに、大変な努力が求められます。正しく読解すること、正確に覚えること、覚えたことを正確に再現すること。
 おはなしおばさんは、みんな、すごいがんばり屋さんです。
 
  わたしは、昔話の語法を理論的に学ぶ前、正確に覚えて再現することに苦労しました。また、それがクリアできても、必ずしも子どもがよろこぶわけではないことも、いやというほど経験しました。つまり、いくら努力して覚え、正確に語っても、子どもがきょとんとしていることがしょっちゅうだったのです。なぜこのおもしろさが伝わらないのだろうと、何度も落ち込みました。
 語り手としての力不足なのだと考えました。子どもにちゃんと向き合っていないのかもしれない。聞かせる技術が未熟だからかもしれない。自分のイメージが足りないのかもしれない。
 そして、ひょっとしたら、文章にも問題があるのかもしれないと考えました。テキストによって聞き手がよくイメージできるものとできないものがあるからです。そこで、テキストが納得できない場合は少し書きかえるということを、こっそりやっていました。初めのうちはやみくもに。経験を積んでくると、勘で。
 
  語法の理論を学ぶようになって、やっと、勘が正しかったことを理論で説明できるようになりました。そうすると、自分が気づかずにそのまま覚えていた箇所も、語法に則っていないことがわかれば書きかえる、ということができるようになりました。
  そうなると、聞き手の反応が、まったく違ってきたのです。内容は変えない、表現をわずかに変える、それだけで子どもはのめり込むように聞くようになったのです。
  文字で書かれた物語を読んで楽しむことになれた目で、テキストを読んでいたのでは、気づかなかった不備が、見えるようになってきたということです。
 
  リュティ理論は、昔話とは、読まれたものではなく、本来、語られ聞かれたものだという大前提の上で展開されていますね。
  おはなしおばさんのやっていることって、まさにそれですよね。だから、テキストが語法に則っていると、聞いてよくわかるのです。逆に語法に則っていないテキストは、覚えにくい、語りにくい、聞きにくい、と三拍子そろってしまうのです。
 よくわかれば、お話はおもしろいはずなんです。
 
  ただし、昔話の語法を学ぶ意味は、テキストの整理にのみあるわけではありません。テーマを知るための手がかりをつかむためでもあるのです。つまり、その話が何を伝えようとしているのか、もっとも重要な部分を、語法が教えてくれるのです。
 これは、とても大切なことです。
 
  たとえば、グリム童話「金の鳥」の主人公はなぜ三回失敗するのか。「白雪姫」はなぜ三回だまされるのか。「灰かぶり」はなぜ三回舞踏会に出かけるのか。昔話の固定性、孤立性、音楽性で説明されるこの三回のくりかえしは、じつは人生そのものなのです。末の王子は自分の優しさゆえに失敗を繰り返し、でもかならず狐に救われます。「白雪姫」はいつも目の前の欲に従って殺され、でも生涯の伴侶にめぐり会います。「灰かぶり」はなかなか本来の美しい自分になることができず、でも王子と結婚します。
  そして、この三回のうちに、聞き手の子どもたちは、期待し落胆し、期待し落胆し、期待し落胆し、そして晴れやかな大団円を経験するのです。約束された幸せな未来は、いちどではやってこないのです。
 
  また、たとえば、「三本の金髪を持った悪魔」。若者は、地獄から帰ってくる途中、悪魔から聞いた答えを、渡し守・門番・門番と、三人に教えてやります。ここでも三回のくりかえしがありますが、ここで大事なのは、ふたりの門番は若者にお礼としてそれぞれ黄金をくれるけれど、渡し守は何もくれないということです。昔話には完全性という語法がありますが、それに外れているように感じませんか? 聞いている子どもはちゃんと気持ち悪さを感じています。だから、ストーリーが進んで、若者が王に「黄金はある川のほとりにある」とうそをついたとき、すぐに気がつきます。これが渡し守からのお礼なのだということを。
  うそをつくことは、道徳的によくないこと、でしょうか? 人生のどんな場面でも? 自分に害をなす強力な人物から身を守るためであっても? 
  昔話のなかではそのような葛藤は語られません。昔話は内面を語らない。語法でいえば、平面性という性質です。
 そしてただ 「そうだ、幸せになれ 」と子どもに強いメッセージを送るのです。
 
  わたしたちが、地域の大人として、親として、現実の社会に生きる人間として、ふつうなら伝えるのが難しい人生のありかたを、ストレートに子どもに伝えることができるのは、昔話を語るからです。もちろん、語法に則った、改ざんされていない昔話でなければだめです。
  昔話の形式意志を思い出してください。この形で語りたいという語り手たちの子どもへの愛情、それが形式意志でしたね。わたしたち現代の語り手は、伝承の語り手たちが作りあげてきた形式を受けつぐことで、語られている重要なテーマを次代へと伝えることができるのです。
 
  はい、がんばって昔話の語法、勉強しましょうね~
  あと少しですよ~
 
 
 

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