▲TOPへ戻る

うんちく池

昔話の語法

 純化作用


 さて、マックス・リュティの様式理論も、いよいよまとめの段階に入ってきました。
  ここで思い出していただきたいことがあります。
 
  「手なし娘」が手を切られる場面や、「馬方やまんば」で馬の足を切る場面で、肉体としての手や足を感じさせることがない、という昔話の語りかたがありましたね。切り紙細工のように、図形的に語る。
 また登場人物は内面を持たず、悩んだり逡巡したりしないで、行動するだけでした。
 登場人物は、周りの環境も描かれないし、出自の説明もされません。
 病気が徐々に治るということはなく、変化は一瞬にしておきますが、百年間寝ていても目覚めれば百年前と変化はありません。時間的な奥行きがないのです。
 このような性質を何といいましたか?  

   平面性だ! みんな、平面性のページを読み直してみてね。

 そうです。  このことを、リュティはさらに次のように説明しています。
 

 リュティ先生いわく。

「昔話の人物は、類型(代表的な形、典型)ではなくて純粋な図形である。類型はまだ強く現実との関連がある。図形は純粋なすじのにない手であり、それがみたすべき唯一の要求は、するどい可視性と、造形の際の極端さ(目で見てはっきりくっきり分かること)である」
  (     )内、by村上


 此岸の馬方も彼岸のやまんばも、どちらもその普段の生活は語られず、このストーリーの中にのみ登場します。
 

 リュティ先生いわく。

「昔話のなかの道具や物は、その本来的な独自な機能をもつにはおよばない。それらの道具や物は、現実の性質からすればほとんど関係のないような、なんらかの魔法的、あるいは世俗的なはたらきを発揮することができる」


 昔話のなかに登場する道具や物は、ストーリーに必要な機能のみ果たします。鼻高扇は、鼻を高くするためにあるのであって、扇としての本来の働きはしません。
  では、これはどうですか?
 昔話では、魔女や山姥に出会っても、その存在に驚かない。彼岸と日常の世界とが地続きで、彼岸の者に対する驚異がない。彼岸の世界ははるか遠くにあるけれども、かならず行き着くことができる。

   一次元性だ!

 そうですね。魔女も竜宮も日常と同一平面にあって、奥行きがありません。


 リュティ先生いわく。

「昔話には超越的なものはすべて消滅してしまっている、ということはすでにのべた。彼岸の国の住人との出会いはある。しかし彼岸者体験(彼岸者と出会った驚きや恐れなど)は欠けている」
  (     )内、by村上


そして、これらの性質がなぜ可能かを思い出してください。

   昔話の表現が孤立性の原理でつらぬかれているからだ。

  そのとおりです。  そして、この「孤立化」のことを、リュティは「中身をぬく」「純化する」と言い換えています。
 
 昔話には、さまざまなことが語られます。誕生、結婚、けんか、戦争、などなど社会的(共同体的)なモティーフ。山の神やお地蔵さま、来訪する神や仏といった宗教や民間信仰のモティーフ。おそろしい魔女や巨人、やまんば、幽霊といった超越的モティーフなど人の世のすべてが、詰めこまれています。
 もしそれらのすべてが、その歴史や周辺の環境を持ったまま詰めこまれていたらどうなるでしょうか。物語はとても複雑になり、主人公は一本のすじの上を進むことはできません。そして、なにもかも中身をぬいて孤立的に語られているから、結びつくことができるのでした。これは前の章で、普遍的結合の可能性として考えました。そのことがもっと広く昔話全体として言われているのです。孤立化されて昔話モティーフに純化されているからこそ、詰めこむことができるのです。


 リュティ先生いわく。

「昔話はそれら(世の中のすべてのことがらや物)をすべて変容させる。中身を抜き、純化し、孤立化してそれらに昔話の形式をあたえる。本来固有の昔話モティーフというものは存在しなくて、あらゆるモティーフは、世俗的なものであろうと奇跡的なものであろうと、昔話のなかにとりいれられ、昔話によって昔話的に形成され、昔話流にとりあつかわれると、たちまちにして『昔話モティーフ』となる」


 昔話のなかで語られることを、それが現実的でないと批判するのは見当違いです。もともと現実的なことがら(モティーフ)であるのを、昔話に取り入れる時点で実体を抜いてしまっているからです。
 
 たとえば、ラプンツェルの塔を原始文化民族の娘小屋だと、民族学的に考えたところで、昔話のストーリーにとって何の意味もありません。社会的モティーフを「使っている」だけで、そのことを「語ろう」としているのではないのです。
  たとえば、「ルンペルシュティルツヒェン」や「大工と鬼六」の名前当てのモティーフ。人間の歴史の中で、多くの民族に、かつて本名を呼ぶことは禁忌だった時代がありました。古代中国では名づけ親か生みの親しか正式名を呼ぶことはできなかったし、古代日本では、女性に名前を尋ねるのは求婚することでもありました。昔話にこのモティーフが使われているのを知ることは興味深いことですが、だからといって、信仰や習俗の研究に使えるわけではありません。昔話の側からいっても、その背景に興味を持たず、ストーリーに必要なモティーフとして使っているだけです。


 リュティ先生いわく。

「古い儀式、慣習、習俗が昔話のなかでかすかに光ってみえる。しかし民族学だけがそれらを発見しうるのである」


 含世界性


 「含世界性」。むつかしいことばですね。 「世界」を「含む」という「性質」ということです。つまり、昔話は、その中に全世界を含むという性質を持っているということです。


 リュティ先生いわく。

「昔話は、ことばの真の意味での世界を包含する文学である。それはあらゆる任意の要素を、純化しつつみずからのなかに受けいれることができるばかりでなく、現実に、人間存在のあらゆる本質的要素を反映している」


 前回説明した、さまざまなモティーフが中身を抜かれ、純化されて昔話のなかにとりこまれるということですが、それだけではなくて、人生のあらゆることを語っているともいうのです。


 リュティ先生いわく。

「ひとつひとつの昔話でさえ小世界と大世界、個人的事件と公的事件、此岸的事件と彼岸的事件を内包している。ところが四編ないし五編の昔話を完全にまとめてみると、われわれの眼前に豊かな人間の可能性が展開されるのがわかる」


 たとえば、「仙人の教え」なら、母親の目が見えないという家庭内の小世界と天竺まで出かけていく大世界。「かしこいモリー」なら、まずしくて親に捨てられたという個人的事件と王さまと話をするという公的事件。「ならなしとり」なら、母親の病気を治すためにならなしをとりに行くという此岸的事件と山の主にのまれるという彼岸的事件。ひとつひとつとっても様々なことが含まれているのに、4,5話集めると、人生に起こる事件を豊かに内包しているというのです。
  そして、リュティは、語り手ならそれくらいの数は楽に話すだろうといっています。そう考えると、お話を選ぶときも、人間としてのさまざまな種類の出来事・心のありさま・生き方をテーマにしたものを、組み合わせてレパートリーにすべきなのでしょう。
 
 昔話は、世界全体を含んでいます。ひとつの人生の全体を語るし、またあらゆる人生を語ります。そのことで、命とはなにかという、人間にとって最も重要なことを語るのです。世界全体を語るから、人間の両極端を語ることになると、リュティはいいます。
 
「狭さと広さ」
 図形的登場人物のかちっとした形、固体を好む性質、登場人物を狭い空間に閉じこめること、これらは、昔話の「狭さ」です。それに対して、海の底、地の果て、空の果てまで出かけていく「広さ」。
 
「平静と運動」
 幾何学模様のようにきっちりとした形、固定的であることは「平静」と言えるけれど、図形的人物が、速いテンポで決然とストーリーの上を前進するのは「運動」と言えます。
 
「自由と法則」
 昔話では考えられるすべてのことが現実になりうるという点では「自由」ですが、三回のくりかえしや、三人目が幸せになるなどの厳しい「法則」性に従っています。


 リュティ先生いわく。

「昔話というガラス玉のなかに世界がうつっているのである」


 これは、純化作用をおよぼすことによって、世界のあらゆるものを昔話のなかにとりこんでいるということです。そうやって世界全体のアンサンブルを語っている。昔話は、世界観、人生観、自然観をその中で語っているのです。


  これは、数えきれないほどのたくさんの人びとが語り継いできたからなんだね。ぼくたち、昔話から学ぶことがいっぱいあるね。一話一話、たいせつに読んでいこう。


 これで、『昔話の語法』の第四章、『ヨーロッパの昔話』の読解の部分を終わります。
 どうぞ、『ヨーロッパの昔話』の全体と、『昔話の語法』の他の章も読んでください。
 語法の勉強は、法則だけを切り離して考えても意味がありません。自分の語る話の中に語法を見つけること、また昔話の語法に則っていないテキストを見極めること、それに手を加えてよりよい語りのテキストにすることが大切です。
 ババ・ヤガーでは、各講座で、ふだんからそのことに言及しますし、また、年に何回か、ひとつの昔話をとりあげてその中から語法を見つけるという講座を開いています。ぜひご参加くださいね。