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 孤立的に語る

昔話では、写実的な細かな描写はしないということは、もうお分かりですね。では、どのように描写するのか。確認しましょう。

 リュティ先生いわく。

「昔話のなかの物の輪郭は、けっしてだんだんにぼやけていったり、だんだんにとけあったりすることはなくてするどい。そうしたするどい輪郭は物や人物をはっきり分離する。きわだった色や金属的な輝きは、ひとつひとつの物や動物や人物をとくにめだたせる」

これって、抽象性を勉強したときに出てきたよね。原色を好むとか、金や銀などの高貴でまれなものを好むとか。極端性のひとつの表れでもある。

そうそう、そうです。そしてここでは、立体を描写する際に立体的に描かないと言っているのです。  ディック・ブルーナの絵を思い出してください。うさこちゃんは、輪郭だけで描かれていますね。よく考えれば、現実には物に輪郭線なんてありませんよね。それを太い線で描く。

抽象画だ!

そう、そして、輪郭線は、背景とうさこちゃんをくっきりと分けているということなのです。そうやって目立たせるのです。  「分離する」といっています。つまり、一つひとつを孤立させるのです。

だから孤立性なのか。

たとえば山を描くとき、昔話では、ただ「山」と名を指し示すだけです。せいぜい、「大きな山」「暗い山」と形容されるだけです。
その山にどんな木が生えているのか、斜面はなだらかなのか、どんな生き物が生息しているのか、細かな描写は一切ありません。山の輪郭だけが描かれるのです。くっきりと孤立的に浮かびあがらせているのです。

 人や人物の孤立性

語り方が孤立的なだけでなく、昔話に出てくる人物や物も孤立的なものが好まれます。

金や銀といった高貴でまれなものが好まれるということは、抽象性のところでも学びましたね。

 リュティ先生いわく。 

「昔話の抽象的様式の個々の要素を注意してみると、昔話には孤立性が支配していることがあきらかになる。
昔話はまれにしかないもの、高価なもの、極端なものをこのむ。それらはすなわち孤立したものである。
金と銀、ダイヤモンドと真珠、ビロードと絹、さらにひとり子、末の息子、まま娘や親なし子などは、孤立性の発現である。王様、貧乏人、ばか者、年とった魔女と美しい王女、白癬頭(しらくもあたま)の男と金髪の男。灰かぶり、うば皮娘、裸で追放された娘、輝くばかりの着物をきた踊り子なども同じく孤立性の発現である」 (改行:村上)

「孤立性の発現」、つまり、これらは「孤立性の具体的な現れ」だということです。これまでのお勉強で、抽象性、極端性として見てきた昔話の性質は、孤立性という原理で説明できるのです。
 
王さまは王国にひとりしかいません。お殿さまも国にひとりしかいませんし、庄屋さんも村にひとりです。昔話に、王さまやお殿さま、庄屋さんがよく登場するのは、まれな存在で、孤立しているからです。決してセレブな世界を描いているからではありません。
三人兄弟の末っ子やまずしい若者が主人公の話を、わたしたちは両手で数えられないほど知っていますね。みな孤立した存在です。
お日さまも驚くほどの美しいおひめさまは、極端性のあらわれですが、こんな美しい人はおそらくこの世にひとりしかいないでしょう。孤立しているのです。
 
グリム童話「黄金の鳥」(KHM57)を例に考えてみましょう。「  」の語に注目してください。
 
「夜中の12時」になると「黄金のりんご」を盗みにやって来る「黄金の鳥」。1枚だけ落ちてくる「黄金の羽」。並んで建っている「にぎやかで楽しげな宿屋」と「ひどくみすぼらしい宿屋」。「黄金の鳥かご」と「木でできた粗末な鳥かご」。「黄金の鞍」と「木と皮でできた粗末な鞍」。「黄金の城に住む美しい王女」。「貧しい男」と「王子」。どれもこれも、まれであったり、極端であったり、孤立した存在です。

そして、主人公は「末の王子」だ。一番下だね。これも孤立的だ。ああ、王子を助けるきつねはいっぴきだし、このきつねは「美しい王女の兄さん」だった。やはり唯一の存在。孤立的なんだ。

 すじの孤立性

話のすじ、つまりストーリーの語り方も、人物や事物の孤立性を高めています。

抽象性のところで、昔話のすじはまっすぐ一直線に進むということを確認しましたね。ところが、もしも、おばあさんが洗濯に行く川で、いつも近所のおばあさんとおしゃべりしたり、川向うの茂みに住むカワウソがちょろちょろ顔をのぞかせたり、川に橋がかかっていて、おばあさんがときおり橋を渡って町に買い物に行ったりと、ストーリーとは関係のないことを語ったら、この川には奥行きが出ます。おばあさんの生活も見えてきます。

けれども、昔話は、そのような周囲のことは語りません。重要なことだけ、すじだけを一直線に語ります。そうすることで、川もおばあさんも周囲の環境から離れます。そう、孤立化するのです。

 リュティ先生いわく。

「昔話のすじの記述もまた孤立化のはたらきをしている。その記述の仕方は純粋に動作だけをのべるのであって、こまかい描写はすべて放棄している。その記述は昔話のすじの線をしめすだけで、すじのおこなわれる空間は感じさせない。森や泉、城、小屋、両親、子供、兄弟姉妹などは、それが話のすじを規定するばあいに名をあげて述べられるだけである。これらの森や泉などが環境を形成することはない」

また、たとえば、「馬方山姥」で、山姥に「馬の足一本よこせ」と追いかけられたとき、馬方は足を一本ぶった切って後ろへ投げます。
このとき、「馬の足を切った」と言うだけで、血が流れたとか、馬が苦しんだとかの描写はいっさいありません。動作だけを述べて、細かい描写は放棄しています。

細かい描写がないから、昔話は聞く人にはっきりした印象を与えるんだね。

そうです。そして、一見残酷なすじも描写が残虐でないから、聞く者の心にショックをあたえません。鬼ごっこのスリルを楽しめるのです。図形的に語るということを「平面性」のところで考えましたね。これは、孤立性の原理で成り立っているのです。

 エピソードの孤立性 1

いよいよ、孤立性の原理の面白いところに入っていきます。
以下のリュティの言葉を、ゆっくり読んでみてください。

 リュティ先生いわく。 

「各エピソードは殻にとじこもっている。各要素はたがいに関連をもつ必要がない。昔話の図形的登場者はなにかを習得することはないし、体験をつむこともない。彼らは状況が似ていることなどはすこしも気にしないで、孤立した状態にいるから、そのつどくりかえし第一歩からはじめる。」

いかがですか。思いあたるふしはありませんか?
 
小澤俊夫先生は、リュティのこの論について、「昔話を理解するうえできわめて重要と思われる」と書いておられます。 具体的に見ていきましょう。
 
「白雪姫」をとりあげます。
白雪姫が七人の小人の家にいると知った女王は、白雪姫を殺しにやって来ます。オリジナルのグリム童話では、女王は三回トライします。その三回を一つひとつのエピソードと考えると、以下のようになります。
 
第1のエピソード (ひも)
 女王は年とった行商人に化けてこびとの家に行く。
 女王は「いい品だよ、いろんな色のひもだよ」と白雪姫を誘う。
 白雪姫は女王を家の中に入れてひもを買う。
 女王は、ひもで白雪姫の胸を絞めて殺す。
 女王が帰ったあと、七人の小人が帰ってくる。
 小人はひもに気づいてほどき、白雪姫は生き返る。
 小人は白雪姫に、「留守中はだれも家に入れてはいけない」と言い聞かせる。

第2のエピソード (くし)
 女王はまずしい女に化けてこびとの家に行く。
 女王は「いい品だよ、美しいくしだよ」と白雪姫を誘う。
 白雪姫は女王を家の中に入れてくしを買う。
 女王は、くしを白雪姫の頭に刺して殺す。
 女王が帰ったあと、七人の小人が帰ってくる。
 小人はくしに気づいて抜き取り、白雪姫は生き返る。
 小人は白雪姫に、「留守中はだれも家に入れてはいけない」と言い聞かせる。
 
第3のエピソード (りんご)
 女王はお百姓の女に化けてこびとの家に行く
 女王は「おいしいりんごをあげよう」と白雪姫を誘う。
 白雪姫はりんごを受けとって食べる。
 白雪姫はりんごの毒で死ぬ。
 女王が帰ったあと、七人の小人が帰ってくる。
 小人はりんごに気づかず、白雪姫は生き返らない。
 小人は白雪姫をガラスのひつぎにいれて山の上に安置する。
 
白雪姫は、前日に殺されかけたのに、しかも小人に忠告されているにもかかわらず、次の日いともたやすく不審な女にだまされます。白雪姫は経験知のない浅はかな少女だったのでしょうか。
小人たちは、留守中に白雪姫が殺されかかったにもかかわらず、次の日、七人とも出かけていきます。用心してひとりぐらい家に残っていてもよさそうなのに。やはり経験知のないお気楽な人たちだったのでしょうか。
もしそう理解するなら、この話は、不審者には用心しなさいとか、同じ失敗を繰り返してはいけないとか、そんなことを伝えるための教訓話になってしまいますね。でも、決してそうではない。「白雪姫」の話の魅力がそんなところにあるのではないことは、子どもたちの支持をみれば明らかです。
 
では、昔話の登場人物はなぜ経験から学ばないのか。それは、これが昔話の語り方だからです。「エピソードが孤立している」といいます。
 
第1のエピソードはカプセル(殻)に閉じこめられていて、第2のエピソードには全く影響をあたえません。第2のエピソードもまたカプセルに閉じこめられていて、第3のエピソードに影響をあたえません。エピソードが一つひとつ孤立しているのです。だから、合理的に考えると持っているはずの経験知を、登場人物たちは当然のごとく持っていないのです。昨日のことは昨日のこととして、カプセルに閉じこめられているのです。

なるほど。エピソードの孤立か。写実的な文学とは異なった原理を持っているんだね。

 リュティ先生いわく。

「これこそは昔話のもっともいちじるしい、そして近代の読者にとってはもっとも抵抗の感じられる性質のひとつである。この性質をするどく把握し、ただしく解釈することができれば、昔話というなぞの解明に本質的な意味で一歩ちかづいたことになる。」

この「孤立性」をしっかり理解したうえでの再話であるかどうか、ということが、わたしたちが語りのテキストを選ぶときのひとつのめやすになります。孤立性の原理に則っているかどうかが、よい再話かどうかのリトマス試験紙になるということです。
 
白雪姫は三回も誘惑に負けたんだと考えて、これを心の弱さを戒める教訓話だととらえてしまったらどうでしょう。そのように再話されたテキストを選んでしまったら、「白雪姫」の大切なメッセージが台無しになってしまいます。
ましてや白雪姫を経験知のない愚かな娘にしないために、初めの二つのエピソードを省いたテキストを選んでしまうと、とんでもない間違いを犯すことになります。
 
エピソードが孤立していること、それは、写実的・心理的文学ではありえないけれど、昔話ではあたりまえのことなのだと理解してくださいね。

わかった。では、エピソード孤立性のこと、もうちょっと例を示してよ。

はいはい。では、問題です。以下にあげる話から、エピソードの孤立を見つけてください。

「灰かぶり」(『語るためのグリム童話集』小峰書店。または完訳のもの)
「お月お星」(『日本の昔話』福音館書店)
「心臓がからだの中にない巨人」(『おはなしのろうそく』東京子ども図書館)
「いばらひめ」(『語るためのグリム童話集』小峰書店。または完訳のもの)
「金の鳥」(『語るためのグリム童話集』小峰書店。または完訳のもの)
「三匹のこぶた」(『イギリスとアイルランドの昔話』福音館書店)

う~ん。これでどうかな? 

 エピソードの孤立性 2

ヨーロッパの昔話を読んでいると、結末部分でびっくりするような判決が言い渡されることがあります。「自己への判決」と呼ばれるモティーフです。 

たとえば、グリム童話の「がちょう番の娘」。

王さまは悪い腰元に、「自分の主人の着物をうばって主人になりすまし、主人の婚約者と結婚した女がいる。こんな女にはどんな裁きをくだすのがよかろうな」とききます。
すると腰元は、「そんな女はまっぱだかにして、内側にくぎを打ち付けた樽の中に放りこみ、二頭の白馬にひかせて道を引きずり回して殺すのがいちばんです」と答えます。そして、王さまは、そのとおりに腰元を罰するのです。

あれれ? 主人の着物をうばって主人の婚約者と結婚したのは、ほかならぬその腰元じしんじゃないか。自分のことだって気づかないのかな?

そうなのです。腰元は自分のしたことを忘れてしまったのでしょうか。
いえ、そうではなくて、エピソードが孤立して語られているだけのことなのです。過去の行為は行為として孤立しており、判決の場面は判決の場面として孤立している。
 でも、そのふたつのエピソードは、てんでばらばらなのではありません。腰元が先にやった行為は残酷です。そして、その行為に対して腰元がくだした判決も残酷です。ですが、妥当な判決です。腰元は自分自身の行為に厳罰をくだしました。これこそが、ドラマの面白さです。しかもこれは、人生を考えるうえで、すごく哲学的なことだと思いませんか。
 
「自己への判決」は、現実的に考えるとありえない。けれども、昔話はそれを語りたい。その人生哲学を語りたいのです。だから、エピソードを孤立させるのです、孤立させないと語れないのです。
ここに、昔話の形式意志があります。

 リュティ先生いわく。

「この状況での魅力はまったくのところ、この悪い女が厳密に自分自身の犯罪に対して判決をくださなければならないという、まさにその点に存する。昔話だけがあえて、事件のとおりの質問をすることができる。なぜならば昔話にとっては、質問されたものがその質問を孤立的に把握し、以前の挿話と比較してみないということが自然だからである。これを可能にしているものは、ただ昔話の構造全体、昔話の、あらゆるものに浸透している孤立的様式だけである。昔話にこの効果をあたえているものは拙劣さや不器用ではなくて、高度な形式の洗練である」

「高度な形式の洗練」。「形式」というのは、昔話の姿、昔話のかたちのことです。

腰元が自分のことだと気づかないのは、語り手が無神経だったり無能力だったりするからではなく、そのような孤立的な語りかたを洗練させてきた成果だというのです。

「自己への判決」の古い例をひとつ紹介しておきましょう。
16世紀半ば、イタリアのストラパローラが著した『愉しき夜』はヨーロッパ最古の昔話集ともいわれています。そのなかに、「ビアンカベッラ」という手なし娘の話があります。
最後の場面で、主人公ビアンカベッラの姉サマリターナが、王に、「今お聞きになったような重大な罪を犯した者は、どんな刑罰をあたえるのがふさわしいでしょうか」と尋ねます。
すると、悪いお妃が、王の返事を待たずにこういいます。
「熱いかまどに放りこんだって、罰としては軽いくらいでしょう」
そして、その通りの罰が与えられるのです。
同じく『愉しき夜』に載っている「美しい緑の鳥」という有名な話にも、自己への判決のモティーフが劇的な効果をもたらしています。
『愉しき夜』は平凡社から長野徹訳で出ているので、読んでみてください。

 昔話の形式意志

ここで、昔話が語られる場を想像してみましょう。たとえば、おばあさんが孫に語るとき、深い愛情をこめて語ったことは容易に想像できますね。そのとき、おばあさんは、わかりやすく語ったはずです。耳で聞いていてストーリーがよくわかるように。

耳で聞くということは、時間の流れにのって聞くということです。音楽と同じです。発せられるあとからあとから消えていく言葉。だから分かりやすく伝えるためには、独特の工夫が要ります。そうして独特の形が作られていったのです。

形、つまり姿、形式です。

おばあさんは、このような形で語ろうという意志をもって語った。愛する孫にわかりやすいような形を工夫した。
これを「形式意志」といいます。

昔話を主語にしていいかえれば、「昔話は形式意志を持っている」ということになります。

耳で聞いてよくわかるような形で語ろうとするってことかな。

そうです。  たとえば「くりかえし」。
昔話では、同じ場面は同じ言葉でくりかえします。同じことがくりかえされる、しかもそのたびに同じ言葉で語られる。そうするとイメージが定着します。つまりわかりやすいのです。
さらに、わかりやすいだけではないのです。くりかえしは、人間の基本的な喜びでもあるのです。

 リュティ先生いわく。

「同一のものの反復は不変性と信頼性の印象を強めるが、それはそもそも叙事詩的様式がよびさますものである。聞き手はつかのまのものの背後に不変なものを感じる。昔話のなかでも、かなり長い部分が一言一句かわらずくりかえされることがある」

「不変性と信頼性」 ちょっと難しい言葉ですね。これは、くりかえされることで、世界は変わらないと感じさせること、いい加減なことは語っていないと感じさせることです。
「つかのまのものの背後に不変なものを感じる」 これは、事件は移っていっても、基本的なものは何も変わらないと感じることです。
 このことを小澤俊夫先生は、「子どもはもう知っているものとまた出会いたがっている」という真理を引きあいに出して説明されます。たとえば、幼子がいつも手放さない安心毛布。絶対にすてさせないボロボロになったぬいぐるみ。あるいは、母親のふところ。子どもは、何度も何度もそこへもどっていっては、自分のアイデンティティを確かめているのです。
もういちど出会うことで魂に安らぎを覚えるわけです。絶対的な安心感ですね。帰るところがあるから、遠くへ出かけていって新しいものと出会うことができるのではないかと思います。
「繰り返し」は、そういう人間の基本的な欲求にこたえているわけですね。

同じ場面は同じ言葉で語る。たしか昔話の「固定性」だって学んだよ。いかにも昔話らしい表現だってことだったね。じゃあ、なぜ昔話では同じ場面を同じ言葉でくりかえすのかっていったら、聞いてわかりやすいことと、それが基本的な喜びだってことなんだね。

そして、 同じ場面を同じ言葉で語ることができるのは、それぞれの場面が孤立しているからなのです。各場面がおたがいに影響を与えていないのです。もし孤立していなかったら、「今度もさっきと同じことが起こりました」で終わってしまいます。
でもそれではお話がおもしろくありませんね。一回一回初めから語ることで、耳から入った言葉がきっちりイメージできて、迫力のあるストーリーが楽しめるのです。
 
ただし、リュティは、「外的孤立性」といいます。一つひとつのエピソードは殻にとじこもっていて外見上は孤立しているのです。けれども、それらを貫くひとつの意志があるのです。だから、外的には孤立しているけれども本当には(内的には)孤立していないのです。前回の「自己への判決」を思い出してください。
 
さあここまでくれば、「普遍的結合の可能性」まであと一歩です。

え~ん。またむつかしい言葉だよ~

がんばれ~~

 普遍的結合の可能性

 リュティ先生いわく。

「目に見える孤立性、目に見えない普遍的結合の可能性、これが昔話形式の根本標識とみなされてよいだろう」

前回、外的孤立性といいました。つまり外見上は孤立しているということです。でも、その実は、孤立している者同士は、どんなものとも結びつくことができる、そういう可能性を内に持っているというのです。

たとえば、イギリスの昔話「かしこいモリー」です。

大男の家から逃げ出したモリーは、王さまの屋敷に行き着きます。そして、王さまに、自分たちに何が起こったかを話します。王さまは、「モリー、おまえはかしこい娘じゃ」といって大男から刀を盗んでくるように持ちかけます。

モリーは、子だくさんの貧しい家の子で、しかも森に捨てられた子です。そして末っ子だから一番弱い存在です。その子がいきなり王さまの屋敷に入っていって対等に話をするのです。王さまも対等に話しています。

現実にはあり得ないよなあ。モリーはまず門番に止められて王さまに会えないはずだ。

どうしてそれが可能になるのでしょう。
これまでのお勉強で、モリーが孤立的存在だということは、わかりますね? 王さまも、孤立的存在ですね。
そしてそれぞれが、背景を持たない存在です。「平面性」〈周囲の世界〉で学んだことを思い出してください。王さまは、「王として本来持っているべき環境を捨てて」います。王さまのまわりには大臣もいるはずだし衛兵もいるはずです。ところが、この場面は、モリーと王さまが一対一で対面しているのです。
これは、ふたりとも背景を持たないから、つまり本来持っているべき環境から孤立しているから可能な場面なのです。孤立的でなかったら、こんな場面はあり得ないのです。
 
これを逆にいうと、モリーと王さまを結びつけるために孤立的に語っているのです。昔話の孤立性は、主人公と他のものを結合させるためにあみだされた語法だといえるでしょう。形式意志によるものです。
 

 リュティ先生いわく。

「孤立した図形が、目に見えないものにひかれて、くみあわさって調和的アンサンブルをなしている。両者がたがいに規定しあう。どこにも根をおろしていないもの、外的関係によっても拘束されず、自己の内面との結びつきによっても拘束されないもの、そういうものだけがいつでも任意の結合をすることができるし、また分離することができる。
逆に孤立性は、なにとでも関連をもつことができる能力によってはじめてほんとうの意義を得る。もしその能力がなければ、外的に孤立している各要素は、不安定にばらばらと散っていってしまうだろう 」

アンサンブルというのは、合唱とか合奏のことですね。各パートや、楽器一つひとつが十分に力を発揮して、ひとつの調和した音楽を作りあげる。昔話もそれと同じだといっています。孤立している一つひとつの人や物やエピソードが組み合わさってひとつのファンタジーの世界を作りあげているのです。

じゃあね、物や人やエピソードやが孤立しているのは、なんとでもおたがいに結びつくためであって、そうやって全体としてひとつの物語の世界を作っているんだって考えたらいいの?

そのとおりです。

 贈り物

孤立しているからこそ何とでも結びつくことができるということ、分かりましたか?
このことは、主人公が彼岸からの援助者からもらう贈り物によく表れています。
登場人物はみな孤立しているので、背景のある普通の人間関係では語れません。そのかわりに、人との関係は贈り物で示されるのです。 

昔話には贈り物がよく出てきます。たとえば、小僧さんが和尚さんからもらう三枚のお札。このお札は、小僧さんと和尚さんを結びつけるモノです。ふたりは、心理的、心情的に結びついているのではなくて、お札で結びついているのです。

和尚さんが小僧さんをとても大切に思っていて、どんな時でも必ず守ってやろうと思っている、なんて昔話では言わないよね。和尚さんは小僧さんにお札をやるだけだ。小僧さんも、和尚さんが必ず守ってくれると信じてる、なんて語らないよね。小僧さんはお札を使うだけだ。

 リュティ先生いわく。

「贈物は、主人公の孤立性を反映している。主人公の外部との結びつきは直接的、持続的なものではなくて、贈物によって、しかもはっきり目に見える孤立した個体の贈物によって媒介される。そしてその贈物は主人公と一体となるようなものでなく、主人公はそれをひとつの外面的なものとして受けとり、使用し、後でまた捨ててしまう。」

援助者との関係は、贈物という具体的なものであらわされるということ、わかりましたね。そして、その贈物は、「主人公と一体と」ならない、つまり日常の生活では使わない、一生涯使うというものではないといっています。その時限り役に立つもので、永続的には使えない。時間的に孤立しているからです。
孤立した主人公は、孤立した援助者から、孤立した贈物をもらうのです。

贈り物が孤立しているって、どういうこと?

たとえば、「尻鳴りべら」のへら、しゃもじですね、これは主人公が庄屋の娘のおしりを鳴らすときだけ使います。ご飯をよそうときには使いません、しゃもじが本来持っているべき環境から孤立しているのです。  そして、孤立しているもの同士だから、主人公と贈物はたがいに結びつくことができるのです。

普遍的結合の可能性だ!

 ここで、昔話に登場する贈物にどんなものがあるか、思い出してみましょう。

う~ん。この語りの森の昔話のなかから探してみるね。こんなのはどう?


奇跡の贈物について、リュティはつぎのようにいっています。

 リュティ先生いわく。

「奇跡の贈物は、昔話の中の贈物一般の高揚された(レベルアップされた)ものでしかない。主人公はかならず、ちょうどそのとき必要としているものをもらうということ自体、すでに十分に奇跡である。贈り物と課題、贈物と危機が正確に対応していること、あらゆる状況がぴたりとあうこと、それは昔話の抽象的様式に属する。奇跡とは、その(抽象的)様式の究極の、もっとも完全な表現である」 (  )内は村上補注

ここで「奇跡」という言葉が出てきました。
「ちょうどそのとき必要としているものをもらう」「贈り物と課題、贈物と危機が正確に対応している」「あらゆる状況がぴたりとあう」。何か思い出しませんか?

一致だ! 状況の一致、場所の一致、時間の一致、条件の一致! 「抽象性」のところで考えたよね。さあ、復習だ。→こちら

この一致するように語ることが、昔話の奇跡性を生んでいるのです。
こんな一致は実際の人生ではめったにありません。もしあれば、わたしたちは奇跡だと感じますよね。でも昔話では、あちこちに一致がでてくるし、登場人物たちはちっとも奇跡だと感じていません。写実的ではない、抽象的な表現方法なのです。
 
さて贈り物をくれるのは、彼岸からの援助者です。
ここで彼岸の存在の孤立性についてお話してから、「主人公」について考えることにしましょう。

 リュティ先生いわく。

「彼岸的登場者は、よく整えられた、展望のきく全体に組みこまれているわけではない。われわれが彼ら彼岸的人物を見るのは、彼らが話のすじのなかへふみこんできたときだけであり、したがって彼らの活動のほんの一部を見かけるにすぎない。しかしその活動の一部分は、話のすじの構造のなかへ有意義に組みこまれる」

小澤俊夫先生は、「馬方山姥」が分かりやすい例だとおっしゃいます。
峠の松の木のかげからとびだしてきて追いかけてくる山姥、ふだんはどんな生活をしているのでしょう。どんな苦い経験を経て山姥などになったのでしょう。仲間はいるのでしょうか。そのような全体は昔話では説明されません。ストーリーに必要なときに現れて去るのみです。
「やまなしとり」で三兄弟に助言をするおばあさんも、そんなふうに登場します。
「灰かぶり」でむすめにドレスを投げ落としてくれる白い鳥。わたしたちは母親のたましいだと感じはしますが、おはなしのなかでは一切説明されていません。よし母親のたましいだとしても、どうやって白い鳥になったのか、ふだんはどこにいて何をしているのか明かされません。必要なときに現れて必要なものを落としていってくれるだけです。「話のすじの構造のなかへ有意義に組みこまれている」だけなのです。

彼岸者も孤立的に描かれているんだね。

もうひとつ、それに関連して「無効力のモティーフ」について少し説明しておきます。 

「仙人の教え」で息子が旅立つときに持っていく「むぎこがし」や、「七羽のカラス」でむすめが持っていく「パン、水、いす」。
 後になってそれがなにか効力を発揮するかといえば、そうではない。まったく忘れ去られます。桃太郎のきびだんごのような力は持っていません。そのときにストーリー的に必要なだけなのです。必要なときに現れてあとはまったく顧みられないモティーフです。
このようなものを「無効力のモティーフ」といって、昔話のあちこちに散見します。
後で忘れ去られるのになぜ登場するのか。
語ってみると分かりますが、「むぎこがし」にしても「パン、水、いす」にしても、とても具体的なものでイメージしやすく、聞き手はぐっと集中して聞きます。旅立つ前の準備、その緊張感が生まれます。ストーリーにとってなくてはならないものなのです。
 

さて、次回、いよいよ昔話の主人公について考えます。

 昔話の主人公 1

昔話に出てくる人物も物も、それが本来持っている環境から孤立している。だからこそおたがいに結びつくことができる。

ここまでよろしいですか?

さて、その孤立性も、普遍的結合の可能性も、いちばん強く持っているのが主人公なのです。
 

 リュティ先生いわく。

「昔話における孤立性と普遍的結合の可能性のもっとも重要なにない手は主人公である。昔話のあらゆる図形的登場者、つまり図形的人物でも図形的物でも、すべて孤立しており普遍的結合能力をもっている。しかし主人公にとってのみ、この潜在的結合能力は、かならず実際の結合した関係として実現される。」

「実際の結合した関係として実現される」というのは、主人公だけが結合の可能性を実現することができるということです。

「山梨取り」で、太郎と次郎は、山のおばあさんのアドヴァイスを受け入れる能力がなかった。けれども三郎は、おばあさんのアドヴァイスを受け入れて目的を達成することができた。アドヴァイスは言葉による贈り物です。主人公の三郎だけが、贈り物と結合することができたのです。太郎にも次郎にもその可能性はあったのに。

リュティはこのことを、つぎのようにもいっています。

 リュティ先生いわく。

「無のなかから彼岸的人物が彼のところへあらわれて、彼に贈物をさしだす。そしてその贈物は脇役には使うことができず、主人公だけが使うことができる。しかもほとんどのばあい彼は主人公であるということによってしか理由の説明がない。彼は自分の兄弟や仲間より道徳的でなければならないというわけではない」

私たちが知っている主人公を思い返してみましょう。
桃の中から出てくる小さな男の子、極端に小さいですね。孤立的です。 豆粒ほどのマメ子、豆たろう。 王女も王子も身分的に極端ですが、しかも主人公になるのは、末のおひめさまであったり、愚かな王子であったりします。 極端に貧しい姉妹のうちの末っ子のモリー、お鍋をもらう女の子も極端に貧しい。 七人の兄を持つひとりの妹。 どれもこれも、ほかの登場人物に比べてより孤立的な存在ですね。
 
昔話は、劣っている子がやがて逆転して力を出していくという力学を持っています。これは、昔話の根本的な力学です。 そして、あらゆる生きものは、動物も植物も、生まれたときが最も弱くて、やがて大きく成長していきます。それこそが生きるということであり、それが命のありようです。 つまり、あなたも、わたしも、昔話を聞いている子どもたちも、みなが主人公なのです。
そして、リュティは、主人公は、あらゆる合理的な説明をこえて恩寵を受けているといっているのです。
 
子どもはもちろん主人公に心を寄せて聞きます。ほとんど自分が主人公になりきって聞いています。その子どもの気持ちは語り手にひしひしと伝わります。だから、語り手は主人公に幸せになってほしいのです。
なぜ愚かな末っ子が幸せになるのか、それは主人公だからなのです。
そして、それは孤立的な形式で語ることによって可能になるのです。

あ、形式意志だ!

弱い子どもが、ときには援助者からの贈り物を得ながら、成長して幸せになるストーリーを語るとき、わたしは、力いっぱい子どもを励ましていますし、わたし自身をも励ましています。おとなだって、昔話に励まされたいですものね。