昔話に出てくる人物も物も、それが本来持っている環境から孤立している。だからこそおたがいに結びつくことができる。
ここまでよろしいですか?
さて、その孤立性も、普遍的結合の可能性も、いちばん強く持っているのが主人公なのです。
リュティ先生いわく。
「昔話における孤立性と普遍的結合の可能性のもっとも重要なにない手は主人公である。昔話のあらゆる図形的登場者、つまり図形的人物でも図形的物でも、すべて孤立しており普遍的結合能力をもっている。しかし主人公にとってのみ、この潜在的結合能力は、かならず実際の結合した関係として実現される。」
「実際の結合した関係として実現される」というのは、主人公だけが結合の可能性を実現することができるということです。
「山梨取り」で、太郎と次郎は、山のおばあさんのアドヴァイスを受け入れる能力がなかった。けれども三郎は、おばあさんのアドヴァイスを受け入れて目的を達成することができた。アドヴァイスは言葉による贈り物です。主人公の三郎だけが、贈り物と結合することができたのです。太郎にも次郎にもその可能性はあったのに。
リュティはこのことを、つぎのようにもいっています。
リュティ先生いわく。
「無のなかから彼岸的人物が彼のところへあらわれて、彼に贈物をさしだす。そしてその贈物は脇役には使うことができず、主人公だけが使うことができる。しかもほとんどのばあい彼は主人公であるということによってしか理由の説明がない。彼は自分の兄弟や仲間より道徳的でなければならないというわけではない」
私たちが知っている主人公を思い返してみましょう。
桃の中から出てくる小さな男の子、極端に小さいですね。孤立的です。 豆粒ほどのマメ子、豆たろう。 王女も王子も身分的に極端ですが、しかも主人公になるのは、末のおひめさまであったり、愚かな王子であったりします。 極端に貧しい姉妹のうちの末っ子のモリー、お鍋をもらう女の子も極端に貧しい。 七人の兄を持つひとりの妹。 どれもこれも、ほかの登場人物に比べてより孤立的な存在ですね。
昔話は、劣っている子がやがて逆転して力を出していくという力学を持っています。これは、昔話の根本的な力学です。 そして、あらゆる生きものは、動物も植物も、生まれたときが最も弱くて、やがて大きく成長していきます。それこそが生きるということであり、それが命のありようです。 つまり、あなたも、わたしも、昔話を聞いている子どもたちも、みなが主人公なのです。
そして、リュティは、主人公は、あらゆる合理的な説明をこえて恩寵を受けているといっているのです。
子どもはもちろん主人公に心を寄せて聞きます。ほとんど自分が主人公になりきって聞いています。その子どもの気持ちは語り手にひしひしと伝わります。だから、語り手は主人公に幸せになってほしいのです。
なぜ愚かな末っ子が幸せになるのか、それは主人公だからなのです。
そして、それは孤立的な形式で語ることによって可能になるのです。
あ、形式意志だ!
弱い子どもが、ときには援助者からの贈り物を得ながら、成長して幸せになるストーリーを語るとき、わたしは、力いっぱい子どもを励ましていますし、わたし自身をも励ましています。おとなだって、昔話に励まされたいですものね。