明確なすじ

昔話が抽象的であることのひとつとして、話のすじが単純で、ひたすらまっすぐ進むということがあります。

現実は、さまざまなことがらが同時進行していて、おたがいに交差したり複雑に入り混じったりしているものです。因果関係も不明なことが多々あります。写実的な文学では、そのような人生を切りとって見せてくれます。

けれども、昔話は、人や物の輪郭が明確であるのと同じように、ストーリー自体が明確なのです。主人公は、まっすぐな一本の線のうえを歩いていきます。因果関係もはっきりしていて、ことがらは鎖のようにつながっています。

 リュティ先生いわく。

「昔話の図形的な登場人物の輪郭や素材、色彩とまったく同様にするどくかつ明確なのは物語のすじの線である。(中略) 昔話のすじは決然として遠方へひろがっていき、数すくない主要人物を長い道のりをこえた遠い国へ連れていく」

たとえば、ノルウェーの「太陽の東月の西」という長い物語は、失った夫を求めて、はるか太陽の東月の西までまっすぐ歩きます。グリムの「七羽のカラス」は、世界のはてまでまっすぐ歩きます。
 日本の「仙人の教え」は、母の目をなおす方法を教わりに仙人を訪ねる話です。まっすぐに歩いて、長者、百姓、大蛇と次々に会います。仙人に会っての帰り道、順にちゃんと大蛇→百姓→長者のところを通って家に帰りつきます。迷ったりひとつ飛ばしたりしません。

たしかに、昔話では、遠くまで行くよなあ。しかも、あっという間に。枝葉を払ってまっすぐに、とっても速いテンポで語られるんだね。
たくさんの登場人物が、いろんな場所で、まちまちなことをしている場面は描かないんだな。

目的地までにさまざまな困難があるばあいも、主人公は途中で引き返したりしません。また、森の中で迷っても、かならず行くべきところに到達します。ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家に行き着いたように。

 リュティ先生いわく。

「ためらいや動揺、あるいは中途半端で、話のすじの線のするどさやすじの前進がさまたげられることはない」

それとね、うんと遠くまで行くとき、空飛ぶ馬や、怪鳥グライフに乗せてもらったりするよね。で、あっという間に到着する。空飛ぶ船ってのもある。一歩千里の靴とか、千里車なんかは日本の昔話にもあるし。

そうですね。彼岸者が主人公に与える贈り物には、移動手段となるものが多いです。これも、まっすぐ遠くまで行くための方法、ファンタジーですね。すじをクリアにするために一役買っています。

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