リュティ先生いわく。
「目に見える孤立性、目に見えない普遍的結合の可能性、これが昔話形式の根本標識とみなされてよいだろう」
前回、外的孤立性といいました。つまり外見上は孤立しているということです。でも、その実は、孤立している者同士は、どんなものとも結びつくことができる、そういう可能性を内に持っているというのです。
たとえば、イギリスの昔話「かしこいモリー」です。
大男の家から逃げ出したモリーは、王さまの屋敷に行き着きます。そして、王さまに、自分たちに何が起こったかを話します。王さまは、「モリー、おまえはかしこい娘じゃ」といって大男から刀を盗んでくるように持ちかけます。
モリーは、子だくさんの貧しい家の子で、しかも森に捨てられた子です。そして末っ子だから一番弱い存在です。その子がいきなり王さまの屋敷に入っていって対等に話をするのです。王さまも対等に話しています。
現実にはあり得ないよなあ。モリーはまず門番に止められて王さまに会えないはずだ。
どうしてそれが可能になるのでしょう。
これまでのお勉強で、モリーが孤立的存在だということは、わかりますね? 王さまも、孤立的存在ですね。
そしてそれぞれが、背景を持たない存在です。「平面性」〈周囲の世界〉で学んだことを思い出してください。王さまは、「王として本来持っているべき環境を捨てて」います。王さまのまわりには大臣もいるはずだし衛兵もいるはずです。ところが、この場面は、モリーと王さまが一対一で対面しているのです。
これは、ふたりとも背景を持たないから、つまり本来持っているべき環境から孤立しているから可能な場面なのです。孤立的でなかったら、こんな場面はあり得ないのです。
これを逆にいうと、モリーと王さまを結びつけるために孤立的に語っているのです。昔話の孤立性は、主人公と他のものを結合させるためにあみだされた語法だといえるでしょう。形式意志によるものです。
リュティ先生いわく。
「孤立した図形が、目に見えないものにひかれて、くみあわさって調和的アンサンブルをなしている。両者がたがいに規定しあう。どこにも根をおろしていないもの、外的関係によっても拘束されず、自己の内面との結びつきによっても拘束されないもの、そういうものだけがいつでも任意の結合をすることができるし、また分離することができる。
逆に孤立性は、なにとでも関連をもつことができる能力によってはじめてほんとうの意義を得る。もしその能力がなければ、外的に孤立している各要素は、不安定にばらばらと散っていってしまうだろう 」
アンサンブルというのは、合唱とか合奏のことですね。各パートや、楽器一つひとつが十分に力を発揮して、ひとつの調和した音楽を作りあげる。昔話もそれと同じだといっています。孤立している一つひとつの人や物やエピソードが組み合わさってひとつのファンタジーの世界を作りあげているのです。
じゃあね、物や人やエピソードやが孤立しているのは、なんとでもおたがいに結びつくためであって、そうやって全体としてひとつの物語の世界を作っているんだって考えたらいいの?
そのとおりです。