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 含世界性

「含世界性」。難しいことばですね。
「世界」を「含む」という「性質」ということです。つまり、昔話は、その中に全世界を含むという性質を持っているということです。

 リュティ先生いわく。

「昔話は、ことばの真の意味での世界を包含する文学である。それはあらゆる任意の要素を、純化しつつみずからのなかに受けいれることができるばかりでなく、現実に、人間存在のあらゆる本質的要素を反映している」

前回説明した、さまざまなモティーフが中身を抜かれ、純化されて昔話のなかにとりこまれるということですが、それだけではなくて、人生のあらゆることを語っているともいうのです。

 リュティ先生いわく。

「ひとつひとつの昔話でさえ小世界と大世界、個人的事件と公的事件、此岸的事件と彼岸的事件を内包している。ところが四編ないし五編の昔話を完全にまとめてみると、われわれの眼前に豊かな人間の可能性が展開されるのがわかる」

たとえば、「仙人の教え」なら、母親の目が見えないという家庭内の小世界と天竺まで出かけていく大世界。「かしこいモリー」なら、まずしくて親に捨てられたという個人的事件と王さまと話をするという公的事件。「ならなしとり」なら、母親の病気を治すためにならなしをとりに行くという此岸的事件と山の主にのまれるという彼岸的事件。ひとつひとつとっても様々なことが含まれているのに、4,5話集めると、人生に起こる事件を豊かに内包しているというのです。
そして、リュティは、語り手ならそれくらいの数は楽に話すだろうといっています。そう考えると、お話を選ぶときも、人間としてのさまざまな種類の出来事・心のありさま・生き方をテーマにしたものを、組み合わせてレパートリーにすべきなのでしょう。
 
昔話は、世界全体を含んでいます。ひとつの人生の全体を語るし、またあらゆる人生を語ります。そのことで、命とはなにかという、人間にとって最も重要なことを語るのです。世界全体を語るから、人間の両極端を語ることになると、リュティはいいます。
 
「狭さと広さ」
図形的登場人物のかちっとした形、固体を好む性質、登場人物を狭い空間に閉じこめること、これらは、昔話の「狭さ」です。それに対して、海の底、地の果て、空の果てまで出かけていく「広さ」。
 
「平静と運動」
幾何学模様のようにきっちりとした形、固定的であることは「平静」と言えるけれど、図形的人物が、速いテンポで決然とストーリーの上を前進するのは「運動」と言えます。
 
「自由と法則」
昔話では考えられるすべてのことが現実になりうるという点では「自由」ですが、三回のくりかえしや、三人目が幸せになるなどの厳しい「法則」性に従っています。

 リュティ先生いわく。

「昔話というガラス玉のなかに世界がうつっているのである」

これは、純化作用をおよぼすことによって、世界のあらゆるものを昔話のなかにとりこんでいるということです。そうやって世界全体のアンサンブルを語っている。昔話は、世界観、人生観、自然観をその中で語っているのです。

これは、数えきれないほどのたくさんの人びとが語り継いできたからなんだね。ぼくたち、昔話から学ぶことがいっぱいあるね。一話一話、たいせつに読んでいこう。

これで、『昔話の語法』の第四章、『ヨーロッパの昔話』の読解の部分を終わります。
どうぞ、『ヨーロッパの昔話』の全体と、『昔話の語法』の他の章も読んでください。
語法の勉強は、法則だけを切り離して考えても意味がありません。自分の語る話の中に語法を見つけること、また昔話の語法に則っていないテキストを見極めること、それに手を加えてよりよい語りのテキストにすることが大切です。
ババ・ヤガーでは、各講座で、ふだんからそのことに言及しますし、また、年に何回か、ひとつの昔話をとりあげてその中から語法を見つけるという講座を開いています。ぜひご参加くださいね。

枝道へ

いったん終了した≪昔話の語法≫ですが、少し補足をしていきたいと思います。
これまで学んだことと内容的には重なるのですが、別のことばで考えてみるとか、別の視点から説明してみると、より理解が進むと思うからです。

材料となる資料はつぎの三冊です。
 『昔話と伝説―物語文学の基本形式』
 『メルヘンへの誘い』
 『民間伝承と創作文学―人間像・主題設定・形式努力』

どれも、マックス・リュティ著/高木昌史(・髙木万里子)訳/法政大学出版局刊です。
これらに書かれている事柄のうち、語るための言葉の使い方(語法)に限定して紹介します。
 
自分の読解力に自信があるわけではないのですが、飽くなき好奇心に導かれて、恐れを知らず、とにかくやってみます! 

 贈り物2

贈り物については、「孤立性」の章段で考えましたこちらが、ここであらためて考えます。
 

昔話では、主人公が困難を乗り越えようとするときや、課題に立ち向かおうとするとき、援助者から贈り物をもらうことがよくあります。
 
例えば、グリム童話「灰かぶり」では、灰かぶりがハシバミの木の下に行くと白い鳥が飛んできて、舞踏会用の美しいドレスと靴を落としてくれます。「金の鳥」では、きつねが、みすぼらしいほうの宿屋に泊まるようにと助言してくれます。助言も一種の贈物です。
 
贈り物は、昔話を聞いている子どもたちにとって、奇跡のようなアイテムです。
 
そして、例えばドラえもんのポケットのように、奇跡のアイテムに子どもたちは絶大なる信頼を置いています。

「三枚のお札」のお札は、万事休すってときに、川や山に変身して助けてくれる。ハラハラドキドキするよね。でも、ぜったい助かるって、心の底で思ってる。

この贈り物の持つかがやくばかりの魅力は、どこから来るのでしょう。
 
まず、 昔話の主人公は内面を持たず、外からのきっかけによって、ただ行動するだけでしたね。昔話は、精神的な奥行きを表現しないのです。では、人と人、人と彼岸者の関係はどうでしょうか?

 リュティ先生いわく。

「昔話は徹底してあらゆるものを統一的でまぶしいほど明るく照らされた同一平面に置こうと心がけるので、登場人物たちの関係をいつも可能な限りくっきりと視覚化するような贈り物を描き出す。」by『昔話と伝説』

 人と人、人と彼岸者の関係も奥行きを持ちません。そのかわり、関係は、贈り物で表されます。鋭く引かれたストーリーの線上に、主人公や、彼岸者、敵、などと同じく平面的に並べられた点のひとつとして、贈り物が登場するわけです。その贈り物は、「関係を可能な限りくっきりと可視化する」物だというのです。あいまいなものではなく、くっきりはっきりイメージできるもの。
  これが、贈り物が魅力的である一つの理由です。聞き手の心に鮮明に残るのです。

白い布切れについた三滴の赤い血、笛、指輪。わしの羽、魚のうろこ、きつねの毛、アリの足。ふしぎでファンタジックで、くっきりイメージできるね。印象的だから、おはなしが終わってからも思い出すよ。

そうですね。
そして、贈り物は、主人公がまさにそれを必要とするときに与えられるということも、大きな魅力のひとつです。

 リュティ先生いわく。

「設定された期限はきわめて正確に満たされる。救助が最後の最後に実現する。主人公に課せられたどのような課題に対しても、まさしくそれに相応しい贈り物や援助が与えられる。この様式化の頂点は「奇跡」である。」by『昔話と伝説』

贈り物は、昔話の奇跡のひとつだというのです。ここには、状況の一致、時間の一致、場所の一致、条件の一致(→こちら)があります。まさに主人公が必要とするぎりぎりの瞬間に、課題を解決するのにぴったりのものを与えられるということは、驚きであり、喜びですね。この与えられかたに魅力があるのです。

 リュティ先生いわく。

「それらは、ストーリーに介入してくるときにだけいつも光輝を放つのである。それらがストーリーにとってもはや必要なくなると、昔話はそれらについてもう触れなくなり、それらは主人公から跡形もなく滑り落ちてしまう。」by『昔話と伝説』

この潔さも魅力のひとつでしょう。一瞬の輝きを贈り物に与えているのです。徐々に変化するものや消えつつあるものは、人を不安にします。が、一瞬にして消えるけれども、必要なときには一瞬にして現れ助けてくれる、何という安心感でしょう。主人公はふり返らず前へ前へと進んでいくことができます。
 
 伝説では、彼岸からの贈り物は家宝として代々受け継がれていきます。昔話はその時限りです。また、楽しみのために日常的に使うということもありません。陸でも海でも走る船に乗って、世界一周漫遊の旅に出る、などということはありません。
  これは、昔話の無時間性といいましたね。平面性のひとつのあらわれです。時間的な奥行きがないのです。
 
では、贈り物を与えてくれる彼岸からの援助者について考えてみましょう。

 リュティ先生いわく。

「彼(主人公)は何らかの課題を解決するため、あるいは冒険をやり抜くために出発する。そしてそのとき彼岸の存在は敵対者あるいは援助者として彼の行く手に現れる。彼は彼らと戦うか、それとも彼らから贈り物を受け取るが、彼らが現れたことや彼らの力にこれっぽっちも驚かない。まったく自明のことでもあるかのように、彼は魔法の力を持った人物が現われ、また消えていくのを眺めている。彼は彼らの存在に関心を抱かないし、彼らがどこから来てどこへ行くのかを問わない。」by『昔話と伝説』

これって、一次元性のところで考えたね。

そうですね。主人公は小人や魔女や山姥の存在に驚かないし、ただ出会うだけで、その後親密なおつき合いが始まることもありません。課題に必要な贈り物を受けとるだけです。そのためだけの援助者なのです。 ただし、この援助者は奇跡の援助者なのです。リュティ先生は、彼らについて、つぎのように言っています。

 リュティ先生いわく。

「主人公に出会って、彼に忠告を与える老人や老婆がどこからその知識を手に入れたのかが示されることはめったにない。彼らは全知ではない(何もかも知っているのではない)。しかし、主人公を助けることのできるまさにそのものを彼らは知っているのである。主人公が一見偶然に出会う彼らがまさしくそれを知っているのだ。」by『昔話と伝説』

主人公に心をよせて物語を聞いている子どもたちにとって、この援助者の存在は決定的です。
語り手は、子どもたち、だから大丈夫だよ、人生やっていけるよと語りつつ、同時に援助者としての大人のありかたを学んでいたのではないかと思います。
 
さて、平面に投影された、主人公と、援助者と、彼らをつなぐ贈り物。これらは奥行きがなく、実体がなく、本来持っているべき環境を捨てています。これを?

平面性だ! 

そうです。そうです。
そして、平面性は孤立性と深くかかわっています。

 リュティ先生いわく。

「そして最も素晴らしいことは、昔話の主人公がその孤立性によって絶えず彼岸の力と触れ合う準備ができているということである。そのための努力をする必要もなく、彼には多くの贈り物が分かち与えられ、その贈り物が彼を前進させ向上させることになる。あれこれ思い迷うことなく、そして自信を持って、昔話の主人公は、まったく孤立しており援助者も援助手段もないままに、あらゆる課題を解決するため仕事に取りかかる。するとどうだろう、決定的な瞬間に、たいていはまったく何もないところから、見知らぬ援助者が現われ、その贈り物が解決されるべき課題に都合この上なく力を振るう。(中略)昔話の主人公は、孤立してはいるものの、どのような状況をも克服することができる。」by『昔話と伝説』

 どうですか? 贈り物の意味と魅力、さらに理解が深まったでしょうか?
  最後に、自分を主人公に重ねて聞いている子どもたちへのメッセージとして、リュティ先生のことばを引用します。これは、子どもだけでなく、大人も大いに勇気づけてくれます。

 リュティ先生いわく。

「彼ら(主人公)は、孤立してはいるが、むしろそれ故にあらゆるものと関連する能力をもって、先入観なしに忠告、援助、贈り物―それらは由来も本質も知らない人物から彼に与えられる―を受け入れながら、それに導かれ支えられて、おのれの道を行く人間なのである。」by『メルヘンへの誘い』

あ、普遍的結合の可能性だね!復習しておこう!

 昔話の中の家族

かつて昔話が語られていた社会環境を想像すると、「家族」といえば、大家族であり、共同体としての家族だったと考えられます。人びとは、農作業や牧畜、養蚕など、さまざまな仕事を家族を核にして行ってきました。ところが、昔話に登場する家族は、大家族とは言えません。
 
「仙人の教え」の主人公の息子は、母親とふたり暮らしです。「灰かぶり」の主人公は、母親がなくなって父親とふたり暮らしになり、そこへ継母と姉妹ふたりがいっしょに暮らすことになります。五人家族ですが、それでも核家族です。「ももたろう」は、おじいさんとおばあさんとの三人家族です。

そういえば、昔話には、叔父さんや叔母さん、いとこ、甥、姪ってほとんど話題にならないよね。それに、三世代同居っていうのもあまりないよね。どうしてなのかなあ。

リュティは、この理由について、ふたつのことを考えています。 まず、ひとつ目を紹介します。

 リュティ先生いわく。

「小家族に限定することで、昔話には確固とした枠組みと簡素で分かり易い構成が与えられる。と同時に、小家族への限定は、昔話に鋭い輪郭やスリムな姿形を付与する一連の特徴にも適合する。」by『民間伝承と創作文学』

 小家族なので、登場人物の数も少ないし、人物間の関係も複雑にはなりませんね。だから、枠組みも構成も単純で分かり易くなります。分かり易いということは、耳で聞く物語としては必須条件ですね。
 ところで、「昔話に鋭い輪郭やスリムな姿形を付与する一連の特徴」とは、何のことかわかりますか?

昔話の抽象性だ! 鋭い輪郭を好むとか、明確なすじを好むとか、勉強したよね。つまり「小家族」も抽象性の現れのひとつなんだ!

そうですね。
では、リュティの主張するもうひとつの理由をみてみましょう。

 リュティ先生いわく。

「調和ではなく、緊張、対決、葛藤が、昔話の家族集団では優勢である。自然―動物、植物、星―は、昔話の主人公を一般的に迎え入れるのに対し、主人公は自分の家族空間では脅かされている。昔話の中心人物、つまり、読み手や聞き手がいち早く自己と同一視する中心人物は、家族のふところの中でよりも、自然や宇宙のふところで自分が大事にされていることを知る。」by『民間伝承と創作文学』

 昔話の中で、主人公にとって家族というのは、自分をあたたかく守ってくれる存在ではなく、むしろ、いつも何かしらの緊張を強いてくる存在だというのです。そして、主人公の味方をしてくれるのは、自然であるというのです。

日本の「手なし娘」では、継母が娘を殺させようとするし、娘の手を切りおとすのは実の父親だ。グリム童話の「金の鳥」では、ふたりの兄さんたちが主人公をだまして殺そうとするよ。
森や山に逃げこんだり、くまやきつねに助けられたりするのは、自然に大事にされているってことなのかな?

「自然」についてはもう少し複雑なので、のちほど考えることにして、まずは「家族」のなかでも「子ども」という存在を、昔話はどう扱っているか、次回、詳しく具体的に見ていきましょう。

 昔話の中の子ども

リュティ先生いわく。

「昔話の中の子どもは、危険に脅かされ、少なからぬ損害を被り、虐待にさらされている。」by『民間伝承と創作文学』

実の親子関係の中では、たとえば、子どもがほしいと熱心に願う親の元に、動物の子どもが誕生する話があります。熱心であるがゆえに危険が潜んでいると、リュティはいいます。
「たとえハリネズミでもいいから子どもがほしい」と望むと、生まれた子はほんとうにハリネズミです。(『グリム童話』108話「ハンスはりねずみぼうや」)
「たとえ親指くらいの大きさでもいいから子どもがほしい」と望むと、親指の大きさの子どもが生まれます。(『グリム童話』37話「親指太郎」)
 
また、たとえば、父親は、妻の「チシャが食べたい」という思いにこたえるために、これから生まれる子どもを魔女に差し出すと契約します。そして生まれた娘は思春期になると魔女のために塔に閉じこめられてしまいます。(『グリム童話』「ラプンツェル」)
母親は、糸を金に変えるために、「子どもが生まれたら、さし出す」と、小人に約束します。(『グリム童話』「ルンペルシュティルツヒェン」)
  父親は、生まれたばかりの娘のために、息子たちに洗礼の水をくみに行かせますが、帰りのおそい息子たちに呪いの言葉をはきます。息子たちはカラスになって飛んで行きます。(『グリム童話』「七羽のからす」)

  実の親ではなくて、継母にいじめられる話があると思うんだけれど。「白雪姫」とか、「ヘンゼルとグレーテル」とか。

そうですね。
リュティは、実の親ではなくて、継母や義理の兄弟姉妹によって害を被るとも書いています。
ただし、実際の伝承では実母だったのが、再話の段階で、それはひどいからと、継母にすり替えられていることもよくあるのです。それはそれで、問題だと思います。義理の関係に対して偏見を与えるかもしれないし、実の関係でも、心理的に子や弟妹を疎ましく思うことがあります。むしろ実の関係として語るほうが、話に深みが出ると思います。
どちらにしても、グリム童話だけでも、子どもが親から受ける災いの例は、枚挙にいとまがありませんね。

リュティ先生いわく。

「このような事実を前にすると、われわれは、「楽天的な昔話」や「単純な昔話」という、よく用いられる決まり文句の使用に慎重になる。悲しみや威嚇がいたるところに織り込まれ、ことがらは、再三、二重の相貌をわれわれに示すのである。」by『民間伝承と創作文学』

「二重の相貌」というのは、たとえば、「七羽のからす」の娘が災いのきっかけであると同時に、救済者でもあるというようなことです。また、最も弱い存在こそが成長するように定められているということ、親が子どもに敵対するということなどをさします。
 このようなことは、心理的にもまた現実にも起こりうることです。 そして、リュティはつぎのようにいいます。

 リュティ先生いわく。

「いずれの場合も、災いは幸せをもたらす。」by『民間伝承と創作文学』

 親指小僧は、親指ほどの子どもだったからこそ、幸せを手に入れるし、白雪姫は、捨てられて小人たちの家で暮らすことになったからこそ、そして、継母に殺されかけたからこそ、王子と結婚することができました。ヘンゼルとグレーテルも、捨てられたからこそ、お菓子の家にたどり着き、魔女の宝を手に入れることができたのです。ラプンツェルは、魔女に塔に閉じこめられたからこそ、王子にめぐり会うことができたのです。

主人公は、主人公であるという、ただそれだけで幸せになるんだね。

 

そうですね。そして、このような救いは、単なる願望ではなく、心理的にも、また現実にも起こりうることだと、リュティは言っているのです。