katarinomori のすべての投稿

 すじの孤立性

話のすじ、つまりストーリーの語り方も、人物や事物の孤立性を高めています。

抽象性のところで、昔話のすじはまっすぐ一直線に進むということを確認しましたね。ところが、もしも、おばあさんが洗濯に行く川で、いつも近所のおばあさんとおしゃべりしたり、川向うの茂みに住むカワウソがちょろちょろ顔をのぞかせたり、川に橋がかかっていて、おばあさんがときおり橋を渡って町に買い物に行ったりと、ストーリーとは関係のないことを語ったら、この川には奥行きが出ます。おばあさんの生活も見えてきます。

けれども、昔話は、そのような周囲のことは語りません。重要なことだけ、すじだけを一直線に語ります。そうすることで、川もおばあさんも周囲の環境から離れます。そう、孤立化するのです。

 リュティ先生いわく。

「昔話のすじの記述もまた孤立化のはたらきをしている。その記述の仕方は純粋に動作だけをのべるのであって、こまかい描写はすべて放棄している。その記述は昔話のすじの線をしめすだけで、すじのおこなわれる空間は感じさせない。森や泉、城、小屋、両親、子供、兄弟姉妹などは、それが話のすじを規定するばあいに名をあげて述べられるだけである。これらの森や泉などが環境を形成することはない」

また、たとえば、「馬方山姥」で、山姥に「馬の足一本よこせ」と追いかけられたとき、馬方は足を一本ぶった切って後ろへ投げます。
このとき、「馬の足を切った」と言うだけで、血が流れたとか、馬が苦しんだとかの描写はいっさいありません。動作だけを述べて、細かい描写は放棄しています。

細かい描写がないから、昔話は聞く人にはっきりした印象を与えるんだね。

そうです。そして、一見残酷なすじも描写が残虐でないから、聞く者の心にショックをあたえません。鬼ごっこのスリルを楽しめるのです。図形的に語るということを「平面性」のところで考えましたね。これは、孤立性の原理で成り立っているのです。

 エピソードの孤立性 1

いよいよ、孤立性の原理の面白いところに入っていきます。
以下のリュティの言葉を、ゆっくり読んでみてください。

 リュティ先生いわく。 

「各エピソードは殻にとじこもっている。各要素はたがいに関連をもつ必要がない。昔話の図形的登場者はなにかを習得することはないし、体験をつむこともない。彼らは状況が似ていることなどはすこしも気にしないで、孤立した状態にいるから、そのつどくりかえし第一歩からはじめる。」

いかがですか。思いあたるふしはありませんか?
 
小澤俊夫先生は、リュティのこの論について、「昔話を理解するうえできわめて重要と思われる」と書いておられます。 具体的に見ていきましょう。
 
「白雪姫」をとりあげます。
白雪姫が七人の小人の家にいると知った女王は、白雪姫を殺しにやって来ます。オリジナルのグリム童話では、女王は三回トライします。その三回を一つひとつのエピソードと考えると、以下のようになります。
 
第1のエピソード (ひも)
 女王は年とった行商人に化けてこびとの家に行く。
 女王は「いい品だよ、いろんな色のひもだよ」と白雪姫を誘う。
 白雪姫は女王を家の中に入れてひもを買う。
 女王は、ひもで白雪姫の胸を絞めて殺す。
 女王が帰ったあと、七人の小人が帰ってくる。
 小人はひもに気づいてほどき、白雪姫は生き返る。
 小人は白雪姫に、「留守中はだれも家に入れてはいけない」と言い聞かせる。

第2のエピソード (くし)
 女王はまずしい女に化けてこびとの家に行く。
 女王は「いい品だよ、美しいくしだよ」と白雪姫を誘う。
 白雪姫は女王を家の中に入れてくしを買う。
 女王は、くしを白雪姫の頭に刺して殺す。
 女王が帰ったあと、七人の小人が帰ってくる。
 小人はくしに気づいて抜き取り、白雪姫は生き返る。
 小人は白雪姫に、「留守中はだれも家に入れてはいけない」と言い聞かせる。
 
第3のエピソード (りんご)
 女王はお百姓の女に化けてこびとの家に行く
 女王は「おいしいりんごをあげよう」と白雪姫を誘う。
 白雪姫はりんごを受けとって食べる。
 白雪姫はりんごの毒で死ぬ。
 女王が帰ったあと、七人の小人が帰ってくる。
 小人はりんごに気づかず、白雪姫は生き返らない。
 小人は白雪姫をガラスのひつぎにいれて山の上に安置する。
 
白雪姫は、前日に殺されかけたのに、しかも小人に忠告されているにもかかわらず、次の日いともたやすく不審な女にだまされます。白雪姫は経験知のない浅はかな少女だったのでしょうか。
小人たちは、留守中に白雪姫が殺されかかったにもかかわらず、次の日、七人とも出かけていきます。用心してひとりぐらい家に残っていてもよさそうなのに。やはり経験知のないお気楽な人たちだったのでしょうか。
もしそう理解するなら、この話は、不審者には用心しなさいとか、同じ失敗を繰り返してはいけないとか、そんなことを伝えるための教訓話になってしまいますね。でも、決してそうではない。「白雪姫」の話の魅力がそんなところにあるのではないことは、子どもたちの支持をみれば明らかです。
 
では、昔話の登場人物はなぜ経験から学ばないのか。それは、これが昔話の語り方だからです。「エピソードが孤立している」といいます。
 
第1のエピソードはカプセル(殻)に閉じこめられていて、第2のエピソードには全く影響をあたえません。第2のエピソードもまたカプセルに閉じこめられていて、第3のエピソードに影響をあたえません。エピソードが一つひとつ孤立しているのです。だから、合理的に考えると持っているはずの経験知を、登場人物たちは当然のごとく持っていないのです。昨日のことは昨日のこととして、カプセルに閉じこめられているのです。

なるほど。エピソードの孤立か。写実的な文学とは異なった原理を持っているんだね。

 リュティ先生いわく。

「これこそは昔話のもっともいちじるしい、そして近代の読者にとってはもっとも抵抗の感じられる性質のひとつである。この性質をするどく把握し、ただしく解釈することができれば、昔話というなぞの解明に本質的な意味で一歩ちかづいたことになる。」

この「孤立性」をしっかり理解したうえでの再話であるかどうか、ということが、わたしたちが語りのテキストを選ぶときのひとつのめやすになります。孤立性の原理に則っているかどうかが、よい再話かどうかのリトマス試験紙になるということです。
 
白雪姫は三回も誘惑に負けたんだと考えて、これを心の弱さを戒める教訓話だととらえてしまったらどうでしょう。そのように再話されたテキストを選んでしまったら、「白雪姫」の大切なメッセージが台無しになってしまいます。
ましてや白雪姫を経験知のない愚かな娘にしないために、初めの二つのエピソードを省いたテキストを選んでしまうと、とんでもない間違いを犯すことになります。
 
エピソードが孤立していること、それは、写実的・心理的文学ではありえないけれど、昔話ではあたりまえのことなのだと理解してくださいね。

わかった。では、エピソード孤立性のこと、もうちょっと例を示してよ。

はいはい。では、問題です。以下にあげる話から、エピソードの孤立を見つけてください。

「灰かぶり」(『語るためのグリム童話集』小峰書店。または完訳のもの)
「お月お星」(『日本の昔話』福音館書店)
「心臓がからだの中にない巨人」(『おはなしのろうそく』東京子ども図書館)
「いばらひめ」(『語るためのグリム童話集』小峰書店。または完訳のもの)
「金の鳥」(『語るためのグリム童話集』小峰書店。または完訳のもの)
「三匹のこぶた」(『イギリスとアイルランドの昔話』福音館書店)

う~ん。これでどうかな? 

 エピソードの孤立性 2

ヨーロッパの昔話を読んでいると、結末部分でびっくりするような判決が言い渡されることがあります。「自己への判決」と呼ばれるモティーフです。 

たとえば、グリム童話の「がちょう番の娘」。

王さまは悪い腰元に、「自分の主人の着物をうばって主人になりすまし、主人の婚約者と結婚した女がいる。こんな女にはどんな裁きをくだすのがよかろうな」とききます。
すると腰元は、「そんな女はまっぱだかにして、内側にくぎを打ち付けた樽の中に放りこみ、二頭の白馬にひかせて道を引きずり回して殺すのがいちばんです」と答えます。そして、王さまは、そのとおりに腰元を罰するのです。

あれれ? 主人の着物をうばって主人の婚約者と結婚したのは、ほかならぬその腰元じしんじゃないか。自分のことだって気づかないのかな?

そうなのです。腰元は自分のしたことを忘れてしまったのでしょうか。
いえ、そうではなくて、エピソードが孤立して語られているだけのことなのです。過去の行為は行為として孤立しており、判決の場面は判決の場面として孤立している。
 でも、そのふたつのエピソードは、てんでばらばらなのではありません。腰元が先にやった行為は残酷です。そして、その行為に対して腰元がくだした判決も残酷です。ですが、妥当な判決です。腰元は自分自身の行為に厳罰をくだしました。これこそが、ドラマの面白さです。しかもこれは、人生を考えるうえで、すごく哲学的なことだと思いませんか。
 
「自己への判決」は、現実的に考えるとありえない。けれども、昔話はそれを語りたい。その人生哲学を語りたいのです。だから、エピソードを孤立させるのです、孤立させないと語れないのです。
ここに、昔話の形式意志があります。

 リュティ先生いわく。

「この状況での魅力はまったくのところ、この悪い女が厳密に自分自身の犯罪に対して判決をくださなければならないという、まさにその点に存する。昔話だけがあえて、事件のとおりの質問をすることができる。なぜならば昔話にとっては、質問されたものがその質問を孤立的に把握し、以前の挿話と比較してみないということが自然だからである。これを可能にしているものは、ただ昔話の構造全体、昔話の、あらゆるものに浸透している孤立的様式だけである。昔話にこの効果をあたえているものは拙劣さや不器用ではなくて、高度な形式の洗練である」

「高度な形式の洗練」。「形式」というのは、昔話の姿、昔話のかたちのことです。

腰元が自分のことだと気づかないのは、語り手が無神経だったり無能力だったりするからではなく、そのような孤立的な語りかたを洗練させてきた成果だというのです。

「自己への判決」の古い例をひとつ紹介しておきましょう。
16世紀半ば、イタリアのストラパローラが著した『愉しき夜』はヨーロッパ最古の昔話集ともいわれています。そのなかに、「ビアンカベッラ」という手なし娘の話があります。
最後の場面で、主人公ビアンカベッラの姉サマリターナが、王に、「今お聞きになったような重大な罪を犯した者は、どんな刑罰をあたえるのがふさわしいでしょうか」と尋ねます。
すると、悪いお妃が、王の返事を待たずにこういいます。
「熱いかまどに放りこんだって、罰としては軽いくらいでしょう」
そして、その通りの罰が与えられるのです。
同じく『愉しき夜』に載っている「美しい緑の鳥」という有名な話にも、自己への判決のモティーフが劇的な効果をもたらしています。
『愉しき夜』は平凡社から長野徹訳で出ているので、読んでみてください。

 昔話の形式意志

ここで、昔話が語られる場を想像してみましょう。たとえば、おばあさんが孫に語るとき、深い愛情をこめて語ったことは容易に想像できますね。そのとき、おばあさんは、わかりやすく語ったはずです。耳で聞いていてストーリーがよくわかるように。

耳で聞くということは、時間の流れにのって聞くということです。音楽と同じです。発せられるあとからあとから消えていく言葉。だから分かりやすく伝えるためには、独特の工夫が要ります。そうして独特の形が作られていったのです。

形、つまり姿、形式です。

おばあさんは、このような形で語ろうという意志をもって語った。愛する孫にわかりやすいような形を工夫した。
これを「形式意志」といいます。

昔話を主語にしていいかえれば、「昔話は形式意志を持っている」ということになります。

耳で聞いてよくわかるような形で語ろうとするってことかな。

そうです。  たとえば「くりかえし」。
昔話では、同じ場面は同じ言葉でくりかえします。同じことがくりかえされる、しかもそのたびに同じ言葉で語られる。そうするとイメージが定着します。つまりわかりやすいのです。
さらに、わかりやすいだけではないのです。くりかえしは、人間の基本的な喜びでもあるのです。

 リュティ先生いわく。

「同一のものの反復は不変性と信頼性の印象を強めるが、それはそもそも叙事詩的様式がよびさますものである。聞き手はつかのまのものの背後に不変なものを感じる。昔話のなかでも、かなり長い部分が一言一句かわらずくりかえされることがある」

「不変性と信頼性」 ちょっと難しい言葉ですね。これは、くりかえされることで、世界は変わらないと感じさせること、いい加減なことは語っていないと感じさせることです。
「つかのまのものの背後に不変なものを感じる」 これは、事件は移っていっても、基本的なものは何も変わらないと感じることです。
 このことを小澤俊夫先生は、「子どもはもう知っているものとまた出会いたがっている」という真理を引きあいに出して説明されます。たとえば、幼子がいつも手放さない安心毛布。絶対にすてさせないボロボロになったぬいぐるみ。あるいは、母親のふところ。子どもは、何度も何度もそこへもどっていっては、自分のアイデンティティを確かめているのです。
もういちど出会うことで魂に安らぎを覚えるわけです。絶対的な安心感ですね。帰るところがあるから、遠くへ出かけていって新しいものと出会うことができるのではないかと思います。
「繰り返し」は、そういう人間の基本的な欲求にこたえているわけですね。

同じ場面は同じ言葉で語る。たしか昔話の「固定性」だって学んだよ。いかにも昔話らしい表現だってことだったね。じゃあ、なぜ昔話では同じ場面を同じ言葉でくりかえすのかっていったら、聞いてわかりやすいことと、それが基本的な喜びだってことなんだね。

そして、 同じ場面を同じ言葉で語ることができるのは、それぞれの場面が孤立しているからなのです。各場面がおたがいに影響を与えていないのです。もし孤立していなかったら、「今度もさっきと同じことが起こりました」で終わってしまいます。
でもそれではお話がおもしろくありませんね。一回一回初めから語ることで、耳から入った言葉がきっちりイメージできて、迫力のあるストーリーが楽しめるのです。
 
ただし、リュティは、「外的孤立性」といいます。一つひとつのエピソードは殻にとじこもっていて外見上は孤立しているのです。けれども、それらを貫くひとつの意志があるのです。だから、外的には孤立しているけれども本当には(内的には)孤立していないのです。前回の「自己への判決」を思い出してください。
 
さあここまでくれば、「普遍的結合の可能性」まであと一歩です。

え~ん。またむつかしい言葉だよ~

がんばれ~~

 普遍的結合の可能性

 リュティ先生いわく。

「目に見える孤立性、目に見えない普遍的結合の可能性、これが昔話形式の根本標識とみなされてよいだろう」

前回、外的孤立性といいました。つまり外見上は孤立しているということです。でも、その実は、孤立している者同士は、どんなものとも結びつくことができる、そういう可能性を内に持っているというのです。

たとえば、イギリスの昔話「かしこいモリー」です。

大男の家から逃げ出したモリーは、王さまの屋敷に行き着きます。そして、王さまに、自分たちに何が起こったかを話します。王さまは、「モリー、おまえはかしこい娘じゃ」といって大男から刀を盗んでくるように持ちかけます。

モリーは、子だくさんの貧しい家の子で、しかも森に捨てられた子です。そして末っ子だから一番弱い存在です。その子がいきなり王さまの屋敷に入っていって対等に話をするのです。王さまも対等に話しています。

現実にはあり得ないよなあ。モリーはまず門番に止められて王さまに会えないはずだ。

どうしてそれが可能になるのでしょう。
これまでのお勉強で、モリーが孤立的存在だということは、わかりますね? 王さまも、孤立的存在ですね。
そしてそれぞれが、背景を持たない存在です。「平面性」〈周囲の世界〉で学んだことを思い出してください。王さまは、「王として本来持っているべき環境を捨てて」います。王さまのまわりには大臣もいるはずだし衛兵もいるはずです。ところが、この場面は、モリーと王さまが一対一で対面しているのです。
これは、ふたりとも背景を持たないから、つまり本来持っているべき環境から孤立しているから可能な場面なのです。孤立的でなかったら、こんな場面はあり得ないのです。
 
これを逆にいうと、モリーと王さまを結びつけるために孤立的に語っているのです。昔話の孤立性は、主人公と他のものを結合させるためにあみだされた語法だといえるでしょう。形式意志によるものです。
 

 リュティ先生いわく。

「孤立した図形が、目に見えないものにひかれて、くみあわさって調和的アンサンブルをなしている。両者がたがいに規定しあう。どこにも根をおろしていないもの、外的関係によっても拘束されず、自己の内面との結びつきによっても拘束されないもの、そういうものだけがいつでも任意の結合をすることができるし、また分離することができる。
逆に孤立性は、なにとでも関連をもつことができる能力によってはじめてほんとうの意義を得る。もしその能力がなければ、外的に孤立している各要素は、不安定にばらばらと散っていってしまうだろう 」

アンサンブルというのは、合唱とか合奏のことですね。各パートや、楽器一つひとつが十分に力を発揮して、ひとつの調和した音楽を作りあげる。昔話もそれと同じだといっています。孤立している一つひとつの人や物やエピソードが組み合わさってひとつのファンタジーの世界を作りあげているのです。

じゃあね、物や人やエピソードやが孤立しているのは、なんとでもおたがいに結びつくためであって、そうやって全体としてひとつの物語の世界を作っているんだって考えたらいいの?

そのとおりです。

 贈り物

孤立しているからこそ何とでも結びつくことができるということ、分かりましたか?
このことは、主人公が彼岸からの援助者からもらう贈り物によく表れています。
登場人物はみな孤立しているので、背景のある普通の人間関係では語れません。そのかわりに、人との関係は贈り物で示されるのです。 

昔話には贈り物がよく出てきます。たとえば、小僧さんが和尚さんからもらう三枚のお札。このお札は、小僧さんと和尚さんを結びつけるモノです。ふたりは、心理的、心情的に結びついているのではなくて、お札で結びついているのです。

和尚さんが小僧さんをとても大切に思っていて、どんな時でも必ず守ってやろうと思っている、なんて昔話では言わないよね。和尚さんは小僧さんにお札をやるだけだ。小僧さんも、和尚さんが必ず守ってくれると信じてる、なんて語らないよね。小僧さんはお札を使うだけだ。

 リュティ先生いわく。

「贈物は、主人公の孤立性を反映している。主人公の外部との結びつきは直接的、持続的なものではなくて、贈物によって、しかもはっきり目に見える孤立した個体の贈物によって媒介される。そしてその贈物は主人公と一体となるようなものでなく、主人公はそれをひとつの外面的なものとして受けとり、使用し、後でまた捨ててしまう。」

援助者との関係は、贈物という具体的なものであらわされるということ、わかりましたね。そして、その贈物は、「主人公と一体と」ならない、つまり日常の生活では使わない、一生涯使うというものではないといっています。その時限り役に立つもので、永続的には使えない。時間的に孤立しているからです。
孤立した主人公は、孤立した援助者から、孤立した贈物をもらうのです。

贈り物が孤立しているって、どういうこと?

たとえば、「尻鳴りべら」のへら、しゃもじですね、これは主人公が庄屋の娘のおしりを鳴らすときだけ使います。ご飯をよそうときには使いません、しゃもじが本来持っているべき環境から孤立しているのです。  そして、孤立しているもの同士だから、主人公と贈物はたがいに結びつくことができるのです。

普遍的結合の可能性だ!

 ここで、昔話に登場する贈物にどんなものがあるか、思い出してみましょう。

う~ん。この語りの森の昔話のなかから探してみるね。こんなのはどう?


奇跡の贈物について、リュティはつぎのようにいっています。

 リュティ先生いわく。

「奇跡の贈物は、昔話の中の贈物一般の高揚された(レベルアップされた)ものでしかない。主人公はかならず、ちょうどそのとき必要としているものをもらうということ自体、すでに十分に奇跡である。贈り物と課題、贈物と危機が正確に対応していること、あらゆる状況がぴたりとあうこと、それは昔話の抽象的様式に属する。奇跡とは、その(抽象的)様式の究極の、もっとも完全な表現である」 (  )内は村上補注

ここで「奇跡」という言葉が出てきました。
「ちょうどそのとき必要としているものをもらう」「贈り物と課題、贈物と危機が正確に対応している」「あらゆる状況がぴたりとあう」。何か思い出しませんか?

一致だ! 状況の一致、場所の一致、時間の一致、条件の一致! 「抽象性」のところで考えたよね。さあ、復習だ。→こちら

この一致するように語ることが、昔話の奇跡性を生んでいるのです。
こんな一致は実際の人生ではめったにありません。もしあれば、わたしたちは奇跡だと感じますよね。でも昔話では、あちこちに一致がでてくるし、登場人物たちはちっとも奇跡だと感じていません。写実的ではない、抽象的な表現方法なのです。
 
さて贈り物をくれるのは、彼岸からの援助者です。
ここで彼岸の存在の孤立性についてお話してから、「主人公」について考えることにしましょう。

 リュティ先生いわく。

「彼岸的登場者は、よく整えられた、展望のきく全体に組みこまれているわけではない。われわれが彼ら彼岸的人物を見るのは、彼らが話のすじのなかへふみこんできたときだけであり、したがって彼らの活動のほんの一部を見かけるにすぎない。しかしその活動の一部分は、話のすじの構造のなかへ有意義に組みこまれる」

小澤俊夫先生は、「馬方山姥」が分かりやすい例だとおっしゃいます。
峠の松の木のかげからとびだしてきて追いかけてくる山姥、ふだんはどんな生活をしているのでしょう。どんな苦い経験を経て山姥などになったのでしょう。仲間はいるのでしょうか。そのような全体は昔話では説明されません。ストーリーに必要なときに現れて去るのみです。
「やまなしとり」で三兄弟に助言をするおばあさんも、そんなふうに登場します。
「灰かぶり」でむすめにドレスを投げ落としてくれる白い鳥。わたしたちは母親のたましいだと感じはしますが、おはなしのなかでは一切説明されていません。よし母親のたましいだとしても、どうやって白い鳥になったのか、ふだんはどこにいて何をしているのか明かされません。必要なときに現れて必要なものを落としていってくれるだけです。「話のすじの構造のなかへ有意義に組みこまれている」だけなのです。

彼岸者も孤立的に描かれているんだね。

もうひとつ、それに関連して「無効力のモティーフ」について少し説明しておきます。 

「仙人の教え」で息子が旅立つときに持っていく「むぎこがし」や、「七羽のカラス」でむすめが持っていく「パン、水、いす」。
 後になってそれがなにか効力を発揮するかといえば、そうではない。まったく忘れ去られます。桃太郎のきびだんごのような力は持っていません。そのときにストーリー的に必要なだけなのです。必要なときに現れてあとはまったく顧みられないモティーフです。
このようなものを「無効力のモティーフ」といって、昔話のあちこちに散見します。
後で忘れ去られるのになぜ登場するのか。
語ってみると分かりますが、「むぎこがし」にしても「パン、水、いす」にしても、とても具体的なものでイメージしやすく、聞き手はぐっと集中して聞きます。旅立つ前の準備、その緊張感が生まれます。ストーリーにとってなくてはならないものなのです。
 

さて、次回、いよいよ昔話の主人公について考えます。

 昔話の主人公 1

昔話に出てくる人物も物も、それが本来持っている環境から孤立している。だからこそおたがいに結びつくことができる。

ここまでよろしいですか?

さて、その孤立性も、普遍的結合の可能性も、いちばん強く持っているのが主人公なのです。
 

 リュティ先生いわく。

「昔話における孤立性と普遍的結合の可能性のもっとも重要なにない手は主人公である。昔話のあらゆる図形的登場者、つまり図形的人物でも図形的物でも、すべて孤立しており普遍的結合能力をもっている。しかし主人公にとってのみ、この潜在的結合能力は、かならず実際の結合した関係として実現される。」

「実際の結合した関係として実現される」というのは、主人公だけが結合の可能性を実現することができるということです。

「山梨取り」で、太郎と次郎は、山のおばあさんのアドヴァイスを受け入れる能力がなかった。けれども三郎は、おばあさんのアドヴァイスを受け入れて目的を達成することができた。アドヴァイスは言葉による贈り物です。主人公の三郎だけが、贈り物と結合することができたのです。太郎にも次郎にもその可能性はあったのに。

リュティはこのことを、つぎのようにもいっています。

 リュティ先生いわく。

「無のなかから彼岸的人物が彼のところへあらわれて、彼に贈物をさしだす。そしてその贈物は脇役には使うことができず、主人公だけが使うことができる。しかもほとんどのばあい彼は主人公であるということによってしか理由の説明がない。彼は自分の兄弟や仲間より道徳的でなければならないというわけではない」

私たちが知っている主人公を思い返してみましょう。
桃の中から出てくる小さな男の子、極端に小さいですね。孤立的です。 豆粒ほどのマメ子、豆たろう。 王女も王子も身分的に極端ですが、しかも主人公になるのは、末のおひめさまであったり、愚かな王子であったりします。 極端に貧しい姉妹のうちの末っ子のモリー、お鍋をもらう女の子も極端に貧しい。 七人の兄を持つひとりの妹。 どれもこれも、ほかの登場人物に比べてより孤立的な存在ですね。
 
昔話は、劣っている子がやがて逆転して力を出していくという力学を持っています。これは、昔話の根本的な力学です。 そして、あらゆる生きものは、動物も植物も、生まれたときが最も弱くて、やがて大きく成長していきます。それこそが生きるということであり、それが命のありようです。 つまり、あなたも、わたしも、昔話を聞いている子どもたちも、みなが主人公なのです。
そして、リュティは、主人公は、あらゆる合理的な説明をこえて恩寵を受けているといっているのです。
 
子どもはもちろん主人公に心を寄せて聞きます。ほとんど自分が主人公になりきって聞いています。その子どもの気持ちは語り手にひしひしと伝わります。だから、語り手は主人公に幸せになってほしいのです。
なぜ愚かな末っ子が幸せになるのか、それは主人公だからなのです。
そして、それは孤立的な形式で語ることによって可能になるのです。

あ、形式意志だ!

弱い子どもが、ときには援助者からの贈り物を得ながら、成長して幸せになるストーリーを語るとき、わたしは、力いっぱい子どもを励ましていますし、わたし自身をも励ましています。おとなだって、昔話に励まされたいですものね。

 昔話の主人公 2

主人公こそが他のあらゆるものと結びつく可能性を持っていること、わかりましたか。
 もういちど、リュティの言葉を引用します。
 

 リュティ先生いわく。

「物語のまばゆいばかりの照明は、主人公の歩むせまい道と、主人公だけを追っていく。そして照明は、主人公があらゆる本質的結合関係を受け入いれ、また本質的でなくなった結合関係を解くことをいつでもできるような態勢で、孤立して進んでいることをわれわれに示している。」

これで、昔話は脇役には冷たい理由がわかるね。
「かしこいモリー」でひどい目にあう大男の娘もおかみさんも、モリーの身の安全のためにはわきにおいやられてしまうんだ。照明はモリーにしか当たっていない。おかみさんは、モリーを家の中に入れるために存在し、モリーの代わりにぶったたかれるために存在しているだけなんだ。

続いてこう述べています。

 リュティ先生いわく。

「主人公の前に立ちふさがる課題や苦難、危険などは、彼にとって可能性以外のなにものでもない。そうしたものと出会うことによって、彼の運命は本質的なものになる」

これって、人生哲学だね。ぼくなら、おばあちゃんにこんなふうに語ってもらえたら、どんなことにぶつかってもがんばろうって思えるよ。目の前がぱっと明るくなる。

もうひとつ、昔話の主人公について、たいせつなことがあります。
それは、主人公は自分のいる位置を知らないで行動する、だけど目的に到達するということです。
「ならなしとり」の末っ子は、おばあさんの助言通りに道を選んで歩いていきます。でも、そのときはただ言われたままに道を選んだだけで、その道の先にならなしの木があって、沼の主が出てきて、そいつを退治して、兄さんたちを助けて、ならなしどっさり持ってかえって、おかあさんの病気を治すことができる、ということことなんか知りません。そのときそのときの目の前の状況に対処しているだけなのです。「いけっちゃ、とんとん」「いくなっちゃとんとん」と鳴っているから、どちらかを選んだだけなのです。
でも主人公だから「いけっちゃとんとん」を選ぶことができたんですね。主人公は正しいキーを押すことができる。
「白雪姫」は、りんごがほしかったから買っただけなのです。これを食べたら自分が死んで、ガラスの棺に入れられて、王子さまに見つけられて、棺を運んでいた召使がよろめいて、生きかえって、王子と結婚するんだなんて、まったく知りません。

ぼくだってそうだよ。人生の先に何が待っているかなんて知らないし、いまやっていることが、人生の中でどんな意味があるかなんて知らない。
ただ目の前にあることを、ひとつひとつ、一生懸命なんとかしながら生きてるだけだ。  でも、しょっちゅう失敗するよなあ。
あ、ちょっと待って! 白雪姫も失敗してる!
そして失敗していちど死んじゃったからこそ、王子さまに会えたんだ。失敗も正しいキーだったんだ。
 うう。勇気が出るなあ~!

リュティ先生いわく。

「主人公は、自分の独自の道を追求していくことによって、他のひとびとを救うことになる。しかもべつに救うことを意図しないで救ってしまうことがたびたびある。あるいは自分のことは考えずに他のひとびとを救ってやる―そしてまさにそのことによって自分の目標への道が開けるのである。」

グリム童話の「かえるの王さま」を思い出してください。
 
おひめさまは、かえるが近づいてくるのがいやでたまりません。でも王さまに叱られるからしぶしぶ椅子の上にあげてやり、一緒に食事をし、自分の部屋につれていきます。ふたりきりになると、おひめさまはかえるを壁にたたきつけました。このようにおひめさまは自分の道を進んでいったのです。
 
ところが、壁にたたきつけることがかえる(王子)を救う唯一の方法だったのです。おひめさまはそのことを知りませんでした。だから、かえるを救ってやろうなどと考えていたわけではありません。意図せずに救ったのです。そして、そのことによって自分は王子さまと結婚することができたのです。「結婚」は昔話の主人公の幸せのひとつです。
 
日本の昔話「仙人の教え」を思い出してください。
 
息子は母親の目をなおすために仙人をさがして旅立ちます。途中で出会った、長者と百姓と大蛇から、仙人にきいてきてくれといってひとつずつ課題を引き受けます。ところが、仙人の家に着くと、仙人は三つの課題にしか答えないといいます。息子は、頼まれた課題を優先し、母親の目のことはあきらめて帰っていきます。
 
帰り道で、息子は、大蛇・百姓・長者に、仙人に教えられたことをつたえてやります。するとそれぞれからお礼をもらうのです。そして大蛇からもらった蛇骨石に母親がさわったとたん、母親の目が開きます。
 
他の人を救うことによって、自分の目的に達することができたのですね。そればかりか、百姓からは千両箱をもらい、長者の娘と結婚します。

主人公は、特別の能力があるわけでもなく、今自分がどこに向かっているかも知らないでそのときそのときの状況を生きていく。そしてかならず本質的に大切なものに出会うのです。
 
それは、わたしたちの人生の在り方そのものです。
 
昔話は、それを、主人公や人、物、援助者、エピソード、すべてを孤立させることによって、つまり抽象的な様式を使って表現しているのです。

お休み処 また

孤立性の理論、感動的ですよね。
語法は哲学ですね~。
 

ここで、なぜ昔話の語法を学ぶのか、ちょっと立ち止まって、あらためて考えてみましょう。
語り手の立場から考えます。
 

私たちの多くは、書いたテキストを覚えて語る「現代の語り手」です。だから、テキストという形のあるものに束縛されます。それも、自分が書いたのではなくて他人の書いたテキストです。伝承の語り手が、自分がかつて聞いた話を自分の文体で語るのとは、大きな違いがあります。
 
わたしたちは、他人の書いたテキストを自分のものにすることに、大変な努力が求められます。正しく読解すること、正確に覚えること、覚えたことを正確に再現すること。
おはなしおばさんは、みんな、すごいがんばり屋さんです。
 
 

わたしは、昔話の語法を理論的に学ぶ前、正確に覚えて再現することに苦労しました。また、それがクリアできても、必ずしも子どもがよろこぶわけではないことも、いやというほど経験しました。つまり、いくら努力して覚え、正確に語っても、子どもがきょとんとしていることがしょっちゅうだったのです。なぜこのおもしろさが伝わらないのだろうと、何度も落ち込みました。
語り手としての力不足なのだと考えました。子どもにちゃんと向き合っていないのかもしれない。聞かせる技術が未熟だからかもしれない。自分のイメージが足りないのかもしれない。
そして、ひょっとしたら、文章にも問題があるのかもしれないと考えました。テキストによって聞き手がよくイメージできるものとできないものがあるからです。そこで、テキストが納得できない場合は少し書きかえるということを、こっそりやっていました。初めのうちはやみくもに。経験を積んでくると、勘で。
 
 

語法の理論を学ぶようになって、やっと、勘が正しかったことを理論で説明できるようになりました。そうすると、自分が気づかずにそのまま覚えていた箇所も、語法に則っていないことがわかれば書きかえる、ということができるようになりました。
 
そうなると、聞き手の反応が、まったく違ってきたのです。内容は変えない、表現をわずかに変える、それだけで子どもはのめり込むように聞くようになったのです。
 
文字で書かれた物語を読んで楽しむことになれた目で、テキストを読んでいたのでは、気づかなかった不備が、見えるようになってきたということです。
 
 

リュティ理論は、昔話とは、読まれたものではなく、本来、語られ聞かれたものだという大前提の上で展開されていますね。
 
おはなしおばさんのやっていることって、まさにそれですよね。だから、テキストが語法に則っていると、聞いてよくわかるのです。逆に語法に則っていないテキストは、覚えにくい、語りにくい、聞きにくい、と三拍子そろってしまうのです。
よくわかれば、お話はおもしろいはずなんです。
 
 

ただし、昔話の語法を学ぶ意味は、テキストの整理にのみあるわけではありません。テーマを知るための手がかりをつかむためでもあるのです。つまり、その話が何を伝えようとしているのか、もっとも重要な部分を、語法が教えてくれるのです。
これは、とても大切なことです。
 
 
たとえば、グリム童話「金の鳥」の主人公はなぜ三回失敗するのか。「白雪姫」はなぜ三回だまされるのか。「灰かぶり」はなぜ三回舞踏会に出かけるのか。昔話の固定性、孤立性、音楽性で説明されるこの三回のくりかえしは、じつは人生そのものなのです。末の王子は自分の優しさゆえに失敗を繰り返し、でもかならず狐に救われます。「白雪姫」はいつも目の前の欲に従って殺され、でも生涯の伴侶にめぐり会います。「灰かぶり」はなかなか本来の美しい自分になることができず、でも王子と結婚します。
 
そして、この三回のうちに、聞き手の子どもたちは、期待し落胆し、期待し落胆し、期待し落胆し、そして晴れやかな大団円を経験するのです。約束された幸せな未来は、いちどではやってこないのです。
 
 
また、たとえば、「三本の金髪を持った悪魔」。若者は、地獄から帰ってくる途中、悪魔から聞いた答えを、渡し守・門番・門番と、三人に教えてやります。ここでも三回のくりかえしがありますが、ここで大事なのは、ふたりの門番は若者にお礼としてそれぞれ黄金をくれるけれど、渡し守は何もくれないということです。昔話には完全性という語法がありますが、それに外れているように感じませんか? 聞いている子どもはちゃんと気持ち悪さを感じています。だから、ストーリーが進んで、若者が王に「黄金はある川のほとりにある」とうそをついたとき、すぐに気がつきます。これが渡し守からのお礼なのだということを。
 
うそをつくことは、道徳的によくないこと、でしょうか? 人生のどんな場面でも? 自分に害をなす強力な人物から身を守るためであっても? 
 
昔話のなかではそのような葛藤は語られません。昔話は内面を語らない。語法でいえば、平面性という性質です。
そしてただ 「そうだ、幸せになれ 」と子どもに強いメッセージを送るのです。

 
 
わたしたちが、地域の大人として、親として、現実の社会に生きる人間として、ふつうなら伝えるのが難しい人生のありかたを、ストレートに子どもに伝えることができるのは、昔話を語るからです。もちろん、語法に則った、改ざんされていない昔話でなければだめです。
 
昔話の形式意志を思い出してください。この形で語りたいという語り手たちの子どもへの愛情、それが形式意志でしたね。わたしたち現代の語り手は、伝承の語り手たちが作りあげてきた形式を受けつぐことで、語られている重要なテーマを次代へと伝えることができるのです。
 
 

はい、がんばって昔話の語法、勉強しましょうね~
 
あと少しですよ~
 
 





日本語で読めるマックス・リュティの著作リスト 
プレゼントだよ~ 

純化作用

さて、マックス・リュティの様式理論も、いよいよまとめの段階に入ってきました。
ここで思い出していただきたいことがあります。
 
 

「手なし娘」が手を切られる場面や、「馬方やまんば」で馬の足を切る場面で、肉体としての手や足を感じさせることがない、という昔話の語りかたがありましたね。切り紙細工のように、図形的に語る。

また登場人物は内面を持たず、悩んだり逡巡したりしないで、行動するだけでした。

登場人物は、周りの環境も描かれないし、出自の説明もされません。

病気が徐々に治るということはなく、変化は一瞬にしておきますが、百年間寝ていても目覚めれば百年前と変化はありません。時間的な奥行きがないのです。

このような性質を何といいましたか?
 

平面性だ! みんな、平面性のページを読み直してみてね。

そうです。  このことを、リュティはさらに次のように説明しています。
 

 リュティ先生いわく。

「昔話の人物は、類型(代表的な形、典型)ではなくて純粋な図形である。類型はまだ強く現実との関連がある。図形は純粋なすじのにない手であり、それがみたすべき唯一の要求は、するどい可視性と、造形の際の極端さ(目で見てはっきりくっきり分かること)である」
  (     )内、by村上

此岸の馬方も彼岸のやまんばも、どちらもその普段の生活は語られず、このストーリーの中にのみ登場します。
 

 リュティ先生いわく。

「昔話のなかの道具や物は、その本来的な独自な機能をもつにはおよばない。それらの道具や物は、現実の性質からすればほとんど関係のないような、なんらかの魔法的、あるいは世俗的なはたらきを発揮することができる」

昔話のなかに登場する道具や物は、ストーリーに必要な機能のみ果たします。鼻高扇は、鼻を高くするためにあるのであって、扇としての本来の働きはしません。
では、これはどうですか?
昔話では、魔女や山姥に出会っても、その存在に驚かない。彼岸と日常の世界とが地続きで、彼岸の者に対する驚異がない。彼岸の世界ははるか遠くにあるけれども、かならず行き着くことができる。

一次元性だ!

 そうですね。魔女も竜宮も日常と同一平面にあって、奥行きがありません。

 リュティ先生いわく。

「昔話には超越的なものはすべて消滅してしまっている、ということはすでにのべた。彼岸の国の住人との出会いはある。しかし彼岸者体験(彼岸者と出会った驚きや恐れなど)は欠けている」
  (     )内、by村上

そして、これらの性質がなぜ可能かを思い出してください。

昔話の表現が孤立性の原理でつらぬかれているからだ。

そのとおりです。  そして、この「孤立化」のことを、リュティは「中身をぬく」「純化する」と言い換えています。
 
昔話には、さまざまなことが語られます。誕生、結婚、けんか、戦争、などなど社会的(共同体的)なモティーフ。山の神やお地蔵さま、来訪する神や仏といった宗教や民間信仰のモティーフ。おそろしい魔女や巨人、やまんば、幽霊といった超越的モティーフなど人の世のすべてが、詰めこまれています。
 もしそれらのすべてが、その歴史や周辺の環境を持ったまま詰めこまれていたらどうなるでしょうか。物語はとても複雑になり、主人公は一本のすじの上を進むことはできません。そして、なにもかも中身をぬいて孤立的に語られているから、結びつくことができるのでした。これは前の章で、普遍的結合の可能性として考えました。そのことがもっと広く昔話全体として言われているのです。孤立化されて昔話モティーフに純化されているからこそ、詰めこむことができるのです。

 リュティ先生いわく。

「昔話はそれら(世の中のすべてのことがらや物)をすべて変容させる。中身を抜き、純化し、孤立化してそれらに昔話の形式をあたえる。本来固有の昔話モティーフというものは存在しなくて、あらゆるモティーフは、世俗的なものであろうと奇跡的なものであろうと、昔話のなかにとりいれられ、昔話によって昔話的に形成され、昔話流にとりあつかわれると、たちまちにして『昔話モティーフ』となる」

昔話のなかで語られることを、それが現実的でないと批判するのは見当違いです。もともと現実的なことがら(モティーフ)であるのを、昔話に取り入れる時点で実体を抜いてしまっているからです。
 
たとえば、ラプンツェルの塔を原始文化民族の娘小屋だと、民族学的に考えたところで、昔話のストーリーにとって何の意味もありません。社会的モティーフを「使っている」だけで、そのことを「語ろう」としているのではないのです。
たとえば、「ルンペルシュティルツヒェン」や「大工と鬼六」の名前当てのモティーフ。人間の歴史の中で、多くの民族に、かつて本名を呼ぶことは禁忌だった時代がありました。古代中国では名づけ親か生みの親しか正式名を呼ぶことはできなかったし、古代日本では、女性に名前を尋ねるのは求婚することでもありました。昔話にこのモティーフが使われているのを知ることは興味深いことですが、だからといって、信仰や習俗の研究に使えるわけではありません。昔話の側からいっても、その背景に興味を持たず、ストーリーに必要なモティーフとして使っているだけです。

 リュティ先生いわく。

「古い儀式、慣習、習俗が昔話のなかでかすかに光ってみえる。しかし民族学だけがそれらを発見しうるのである」