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 極端性

金や銀のように、昔話では、高貴でまれなものが好んで語られます。これは極端な美しさを表しているといえるでしょう。極端であるがゆえに孤立しているのです。

 リュティ先生いわく。

「昔話は透んだ超原色を好む。金、銀、赤、白、黒、それに紺青である。金色、銀色は金属的な輝きをもっており、黒と白は非個体的対照であり、赤は色彩のうちでもっともけばけばしいものである。そして幼児の注目をもっとも早くひきつけるのは赤である」

これは昔話にあらわれる色についての説明です。
「非個体的対照」って、どういうことでしょう。
まず、黒と白は極端な「対照」ですね。そして、昔話では、色もものごとも、白か黒かどちらかだというのです。これは現実の世界ではありえませんね。現実では、黒から白へ、または黒から白へと連続的にグラデーションしていて、ほとんどが中間色です。 また、動物や植物の個体は微妙な差異をもっています。色彩のグラデーションのようなものです。だから、黒か白か、というのは、個体差を無視している。「非個体的」だというのです。

昔話は原色を好むのかあ。ほんとかな。具体例をさがしてみよう。

この極端性は、現実離れしています。そして、写実的な文学でこのような表現をすれば、語彙が少ないと感じたり、描写力がなくておもしろくないと感じたりするかもしれません。ところが、耳で聞く文芸では、この極端性が重要なのです。抽象的文学であるゆえんです。

 リュティ先生いわく。

「昔話は、あらゆる極端なものをこのみ、とくに極端な対照をこのむ」

平面性の「外的刺激」の項で、登場人物の性質が対照的に描かれるってこと、考えたね. 
これ、極端な対照だね。

極端性は昔話のあらゆるところにあらわれます.

そしてそれは孤立性と結びついています。

昔話の主人公は、三人兄弟の末っ子であったり、食べていけなくて親に捨てられるほど貧しかったり、この世で一番美しかったりします。極端な存在なのです。やはり、極端であるがゆえに孤立しています。

モリーのわたる橋は、髪の毛一本でできています。非常に細い、極端に細い橋です。やはり孤立的ですね。

孤立性についてはあとであらためて考えます。

 明確なすじ

昔話が抽象的であることのひとつとして、話のすじが単純で、ひたすらまっすぐ進むということがあります。

現実は、さまざまなことがらが同時進行していて、おたがいに交差したり複雑に入り混じったりしているものです。因果関係も不明なことが多々あります。写実的な文学では、そのような人生を切りとって見せてくれます。

けれども、昔話は、人や物の輪郭が明確であるのと同じように、ストーリー自体が明確なのです。主人公は、まっすぐな一本の線のうえを歩いていきます。因果関係もはっきりしていて、ことがらは鎖のようにつながっています。

 リュティ先生いわく。

「昔話の図形的な登場人物の輪郭や素材、色彩とまったく同様にするどくかつ明確なのは物語のすじの線である。(中略) 昔話のすじは決然として遠方へひろがっていき、数すくない主要人物を長い道のりをこえた遠い国へ連れていく」

たとえば、ノルウェーの「太陽の東月の西」という長い物語は、失った夫を求めて、はるか太陽の東月の西までまっすぐ歩きます。グリムの「七羽のカラス」は、世界のはてまでまっすぐ歩きます。
 日本の「仙人の教え」は、母の目をなおす方法を教わりに仙人を訪ねる話です。まっすぐに歩いて、長者、百姓、大蛇と次々に会います。仙人に会っての帰り道、順にちゃんと大蛇→百姓→長者のところを通って家に帰りつきます。迷ったりひとつ飛ばしたりしません。

たしかに、昔話では、遠くまで行くよなあ。しかも、あっという間に。枝葉を払ってまっすぐに、とっても速いテンポで語られるんだね。
たくさんの登場人物が、いろんな場所で、まちまちなことをしている場面は描かないんだな。

目的地までにさまざまな困難があるばあいも、主人公は途中で引き返したりしません。また、森の中で迷っても、かならず行くべきところに到達します。ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家に行き着いたように。

 リュティ先生いわく。

「ためらいや動揺、あるいは中途半端で、話のすじの線のするどさやすじの前進がさまたげられることはない」

それとね、うんと遠くまで行くとき、空飛ぶ馬や、怪鳥グライフに乗せてもらったりするよね。で、あっという間に到着する。空飛ぶ船ってのもある。一歩千里の靴とか、千里車なんかは日本の昔話にもあるし。

そうですね。彼岸者が主人公に与える贈り物には、移動手段となるものが多いです。これも、まっすぐ遠くまで行くための方法、ファンタジーですね。すじをクリアにするために一役買っています。

 一致

主人公は、一本のまっすぐなすじの上を歩いていきます。すじは、主人公の幸せな結末に向かって、速いテンポで進みます。ですが、緊迫感や驚きに満ちていて、聞き手の心の中では、けっして平板な道ではありません。単純明快なのに、同時にドラマティック。どうすればそんなことが可能なのでしょうか。それは、さまざまな部分で、状況や時間、場所、条件を一致させるという語りかたをしているからです。

一致させるって? 時間と時間が一致するの? 場所と場所が一致する?
う~ん。たとえばどんなこと?

まず状況の一致を見ましょう。
イギリスの昔話「かしこいモリー」で、モリーたち三人が森で迷い、大男の家で泊まることになりますね。その大男には娘が三人います。人数が一致。だからモリーは、大男の娘たちを自分たちの身代わりにすることができたのです。また、王さまの王子たちも三人です。三姉妹は三兄弟と数がぴったり一致。結婚します。完璧な幸せです。
 まるで奇跡のようですが、当たり前のように状況を一致させて語っています。

なるほど~。状況の一致。ほかに例をさがしてみよう。

つぎに、時間の一致。 
グリム童話の「十二人兄弟」の最後の場面。妹が柱にしばられて、火が着物のすそにめらめらと燃え移ろうとしたとき、呪いの七年の最後の瞬間が過ぎ去ります。そのとき、十二羽のカラスがとんできて、人間のすがたにもどり、妹を助けました。危機一髪、ぎりぎりセーフです。「妹の火刑」の瞬間と、「七年の終わり」の瞬間が一致しています。 火刑の場に兄さんたちが飛んできたのは、場所の一致といえます。
 現実ではありえない奇跡ですが、これが昔話のドラマの作り方といえます。

なるほど~。時間の一致。手に汗にぎる緊迫感は、時間の一致から来るんだ。ほかの例をさがすぞ。

つぎは、場所の一致です。グリム童話で、ヘンゼルとグレーテルは、森を三日三晩さまよいます。そして、他のどこでもなく、お菓子の家にぴたりと行き着きます。白雪姫は七人の小人のすみかに、ぴたりと行き着きます。お菓子の家も小人の家も、主人公の人生を決定的に変える場所ですね。王子は、白雪姫の棺にぴたりと行き着きます。この場所の一致が感動を生んでいます。

そうだなあ。実際の人生でせっぱつまったとき、場所の一致、時間の一致があれば劇的に救われるだろうなあ。まあ逆も然りだけどね。

条件の一致ということもあります。
たとえば、日本の昔話「話十両」では、主人公の男が、稼いだ十両をもって故郷に帰ろうとすると、旅の途中で「話を売る」という看板を見つけます。買おうとすると、話は三つで十両だというのです。持っていた十両で話三つ買います。話の値段と稼いだ金の金額が一致しています。

このように、あらゆるところで一致があらわれるのは、決して現実ではありえません。昔話は写実的ではない、抽象的な文学といえます。

 リュティ先生いわく。

「抽象的様式構成、すなわち各状況がたがいに正確に一致することは、なにかの外的な魔術と同様に魔法的である。いやじつのところそうした魔術よりもはるかに現実ばなれしている」

一致は、魔法で起こっているのではありません。魔女や山姥が魔術を使って一致させているのではない。ごく当たり前のこととして、一致するのです。つまり、語り方自体が魔法的または奇跡的なのです。 
 

 固定性

昔話には昔話の定まった形があり、この定式が話の中につぎつぎにあらわれてくると、いかにも昔話だなあという印象を与えます。だれが見ても昔話だとすぐにわかります。このことを「昔話の固定性」といいます。

具体的に見ていきましょう。 

 1、昔話に出てくる「数」

 リュティ先生いわく。

「昔話は、固定した公式でもって活動する。昔話は、数字一、二、三、七、十二をこのむ。それらはすなわちはっきりした刻印のある、そして発生的には魔術的意味と力をもった数字である。」

ここであげている数字は、もともとは魔術的な意味を持っていたのでしょうが、昔話に取り込まれた段階でそんな力はなくなっていますね。
「一」は孤立的だからここでは説明は省くとして、対になったふたり(にひき)は、いくらでも登場します。「三」は、・・・

ちょっと待って。
「三」は、「三匹のこぶた」「三枚のお札」、「三枚の鳥の羽」、三人兄弟・三姉妹、「七」は、「おおかみと七匹の子やぎ」「七羽のカラス」、七人の小人、「十二」は「十二人兄弟」。
みんなも探してみてね。

中国では九、イスラム圏では四という数字も好まれるそうです。民族によって好まれる数が異なるのは、発生的なことと関係しているのでしょうか。
数といえば、丸い数が好まれるということもあります。十、百、千といった数です。「仙人の教え」の大蛇は、海に千年、山に千年、川に千年修行します。873年などということはないのです。覚えやすい数、聴いてわかりやすい数です。多様性は排除されています。
 
 2、同じ場面は同じ言葉で

昔話では、同じ場面は同じ言葉で語るということが重要です。同じことがおきたら、同じ言葉でくりかえすのです。このことで、きちっとした固定的な印象が生まれます。
「二度目も、一度目と同じことがおこりました」とは言わないで、きちっとくりかえすのです。聞き手が一度目を正確に覚えているとは限りませんから。

 リュティ先生いわく。

「昔話の語り手はたいてい、変化をあたえるために言葉を入れかえることを避ける。それは無能力ゆえにではなく、様式上の要求からそうするのである。頑固な厳格なくりかえしがあらわれると、それはやはり抽象的様式の一要素である。」

写実的な小説なら、同じ場面をさまざまな表現でいいかえます。同じ表現を使えば語彙が貧困で描写力がないと批判されるでしょう。けれども、昔話では、あえて同じ言葉を使います。聞いてわかりやすいのです。語り手にとって覚えやすくもあります。 

 3、言葉による出来事のくりかえし

昔話では、前におきた出来事を、あとで言葉でくりかえすという語りかたを好みます。音声は、語られるあとからあとから消えていきます。だから、もういちどくりかえす必要があるのです。本のようにページを繰って後戻りできないからです。

 4、出来事による言葉のくりかえし

昔話では、前に言葉でいわれたことが、のちに出来事としてくりかえされるという語りかたを好みます。いわれた言葉はかならず実現するということです。

 5、最後部優先の法則

物語の中で最も重要な人物やことがらは最後に言及されることが多いです。三人兄弟で重要な役割を持つのは末っ子であることが多いですね。

 6、話の冒頭

「むかし、あることろに」と語りはじめると、いかにも昔話だなあと感じられますね。

昔話は、「むかし、あるところに、おじいさんがいました」のように、時代・場所・人物が不特定に語られます。これは、さあこれから架空の話を始めるよという宣言なのです。反対に伝説は、時代も場所も人物もはっきり特定し、これは本当にあった話だよと話しはじめます。
 

 一対一の場面

昔話の場面は、人物が一対一で構成されるという大原則があります。ひとつの場面に何人もがいて、まじりあいながら話したり行動したりするというような、ややっこしい複雑な場面を、昔話は好まないのです。

たとえば、主人公対敵、主人公対援助者、援助者対敵。というように、すっきりした場面構成になっています。だから、聴いてわかりやすいのです。

なるほど~  「語りの森」の ≪外国の昔話≫ と ≪日本の昔話≫ から具体例をさがそう。

 あ、でも、七人の小人とか、七匹の子やぎはどうなんだろう。

そうですね。七人の小人はたしかに複数ですが、ひとりひとりが個性的に行動するのではなく、七人でひとまとまりです。七人で一単位。だから、「七人の小人」対「白雪姫」の一対一と考えることができます。
具体的に見てみましょう。

そして、場面が一対一で構成されるということは、時間の一致と深くかかわっています。
七人の小人と白雪姫が一対一。小人が出かけてからは、お妃がやって来て、お妃と白雪姫が一対一。お妃が戻っていってしまってから小人たちが帰って来て、小人と白雪姫が一対一。時間の一致がなければ、三者が鉢合わせします。大混乱の場面が想像されますね(笑)

そうか、現実の生活では一対一の場面ってあまりないよね。やっぱりこれも抽象性のあらわれなんだ。

 完全性

昔話は極端に語ることを好みます。このことは「極端性」の項で考えましたね。極端の行き着く先は完全です。つまり「たいへん・とても」が極端だとすると、完全性は「まったく・すべて」なわけです。

たとえば、グリム童話の「三本の金髪のある悪魔」を考えてみましょう。

子どもが箱に入れられて川に流されますが、箱の中に水は「一滴も」入りませんでした。完全性があらわれているところです。だから無事生きのびられたんですね。
 
若者が旅の途中立ち寄った町では、泉から今までワインが湧き出ていたのに、今では「水一滴」わいてきません。今まで金のリンゴがなっていた木は「葉っぱ一枚」出さなくなりました。完全性です。

イメージがとてもクリアですね。

そして、悪魔は、若者が知りたいことすべてに正答をくれます。

また、男の子が14歳になったらおひめさまと結婚するという予言は、100パーセント的中します。

ゼロか100かどちらかなんだね。とても分かりやすいし、聴いてて先のストーリーの予想がつくよね。

そうです。昔話の予言はいつも完全に的中します。「いばらひめ」では、12人の賢い女たちがいばらひめに授けた贈り物は、すべて実現します。
「白雪姫」の鏡は、「この国で一番美しいのはあなたです。けれども、白雪姫はあなたより千倍も美しい」といいます。完全な美。
 
ところで、「おおかみと七匹の子やぎ」のおおかみは、子やぎ七匹をすべてのみ込んだわけではありません。いっぴきだけは見逃してしまいますね。これを、「完全の中の不完全」といいます。昔話がとっても好む語りかたです。
このいっぴきが残りの六匹をすくう力になります。いっぴきと六匹の力が拮抗しています。これを「量のコントラスト」ともいいます。
「いばらひめ」の冒頭で、かしこい女は13人いたのにお皿は12枚しかなかった。一枚足りません。そのために招待されなかった一人の女の力があとの12人の女の力と拮抗しています。
王さまは国じゅうのすべてのつむを焼き捨てたはずなのに、ひとつだけ残っていて、おひめさまはそのつむで指をさしてしまいます。
これが、完全の中の不完全、量のコントラストです。

現実にはそんなにうまくいくわけないって思うんだけど、それが昔話の語りかたなんだね。

お休み処

昔話の語法のお勉強も、ここからが折り返し点です。
ちょっとふりかえってみましょう。

彼岸的な存在に驚きを感じないということは、次元の断絶がないという意味で・・?

一次元性だ!

そうですね。けれど、見方を変えれば、彼岸者が此岸の者と同じ平面上にいるわけですから・・・?

平面性だ!

そうですね。また同時に、彼岸者がそういう超越的な世界から離れている(孤立している)といえます。

孤立性?

 そのとおり。
 ところで、登場人物について、先祖や子孫のことを語らないのは・・・?

平面性のあらわれだね。

そうです。これも見方を変えれば、人物は先祖や子孫から孤立しているということができます。

孤立性?

そうです。 

これまで考えてきた「一次元性」という原理は、「平面性」と深くかかわってきました。

「平面性」というのは、端的にいえば、立体的には語らない、図形的に語るということでしたね。これは、昔話が「抽象的」な原理で成り立っている、抽象的様式を持った文芸であることから生まれるということでした。

ここまで、大丈夫ですね?? 

その抽象的な様式が最もはっきり表れるのが、「孤立性」です。

そして、この孤立性こそが、昔話の主人公を主人公たらしめるところの重要な原理なのです。

それは、昔話が、人生の在り方を語るものであり、わたしたちはなぜ昔話を聞いて感動するのかという、根本的なことがらと結びついていきます。
 

さあ、いよいよ佳境に入っていきますよ。あきらめずにお勉強を続けましょう。
 

 孤立的に語る

昔話では、写実的な細かな描写はしないということは、もうお分かりですね。では、どのように描写するのか。確認しましょう。

 リュティ先生いわく。

「昔話のなかの物の輪郭は、けっしてだんだんにぼやけていったり、だんだんにとけあったりすることはなくてするどい。そうしたするどい輪郭は物や人物をはっきり分離する。きわだった色や金属的な輝きは、ひとつひとつの物や動物や人物をとくにめだたせる」

これって、抽象性を勉強したときに出てきたよね。原色を好むとか、金や銀などの高貴でまれなものを好むとか。極端性のひとつの表れでもある。

そうそう、そうです。そしてここでは、立体を描写する際に立体的に描かないと言っているのです。  ディック・ブルーナの絵を思い出してください。うさこちゃんは、輪郭だけで描かれていますね。よく考えれば、現実には物に輪郭線なんてありませんよね。それを太い線で描く。

抽象画だ!

そう、そして、輪郭線は、背景とうさこちゃんをくっきりと分けているということなのです。そうやって目立たせるのです。  「分離する」といっています。つまり、一つひとつを孤立させるのです。

だから孤立性なのか。

たとえば山を描くとき、昔話では、ただ「山」と名を指し示すだけです。せいぜい、「大きな山」「暗い山」と形容されるだけです。
その山にどんな木が生えているのか、斜面はなだらかなのか、どんな生き物が生息しているのか、細かな描写は一切ありません。山の輪郭だけが描かれるのです。くっきりと孤立的に浮かびあがらせているのです。

 人や人物の孤立性

語り方が孤立的なだけでなく、昔話に出てくる人物や物も孤立的なものが好まれます。

金や銀といった高貴でまれなものが好まれるということは、抽象性のところでも学びましたね。

 リュティ先生いわく。 

「昔話の抽象的様式の個々の要素を注意してみると、昔話には孤立性が支配していることがあきらかになる。
昔話はまれにしかないもの、高価なもの、極端なものをこのむ。それらはすなわち孤立したものである。
金と銀、ダイヤモンドと真珠、ビロードと絹、さらにひとり子、末の息子、まま娘や親なし子などは、孤立性の発現である。王様、貧乏人、ばか者、年とった魔女と美しい王女、白癬頭(しらくもあたま)の男と金髪の男。灰かぶり、うば皮娘、裸で追放された娘、輝くばかりの着物をきた踊り子なども同じく孤立性の発現である」 (改行:村上)

「孤立性の発現」、つまり、これらは「孤立性の具体的な現れ」だということです。これまでのお勉強で、抽象性、極端性として見てきた昔話の性質は、孤立性という原理で説明できるのです。
 
王さまは王国にひとりしかいません。お殿さまも国にひとりしかいませんし、庄屋さんも村にひとりです。昔話に、王さまやお殿さま、庄屋さんがよく登場するのは、まれな存在で、孤立しているからです。決してセレブな世界を描いているからではありません。
三人兄弟の末っ子やまずしい若者が主人公の話を、わたしたちは両手で数えられないほど知っていますね。みな孤立した存在です。
お日さまも驚くほどの美しいおひめさまは、極端性のあらわれですが、こんな美しい人はおそらくこの世にひとりしかいないでしょう。孤立しているのです。
 
グリム童話「黄金の鳥」(KHM57)を例に考えてみましょう。「  」の語に注目してください。
 
「夜中の12時」になると「黄金のりんご」を盗みにやって来る「黄金の鳥」。1枚だけ落ちてくる「黄金の羽」。並んで建っている「にぎやかで楽しげな宿屋」と「ひどくみすぼらしい宿屋」。「黄金の鳥かご」と「木でできた粗末な鳥かご」。「黄金の鞍」と「木と皮でできた粗末な鞍」。「黄金の城に住む美しい王女」。「貧しい男」と「王子」。どれもこれも、まれであったり、極端であったり、孤立した存在です。

そして、主人公は「末の王子」だ。一番下だね。これも孤立的だ。ああ、王子を助けるきつねはいっぴきだし、このきつねは「美しい王女の兄さん」だった。やはり唯一の存在。孤立的なんだ。