孤立しているからこそ何とでも結びつくことができるということ、分かりましたか?
このことは、主人公が彼岸からの援助者からもらう贈り物によく表れています。
登場人物はみな孤立しているので、背景のある普通の人間関係では語れません。そのかわりに、人との関係は贈り物で示されるのです。
昔話には贈り物がよく出てきます。たとえば、小僧さんが和尚さんからもらう三枚のお札。このお札は、小僧さんと和尚さんを結びつけるモノです。ふたりは、心理的、心情的に結びついているのではなくて、お札で結びついているのです。
和尚さんが小僧さんをとても大切に思っていて、どんな時でも必ず守ってやろうと思っている、なんて昔話では言わないよね。和尚さんは小僧さんにお札をやるだけだ。小僧さんも、和尚さんが必ず守ってくれると信じてる、なんて語らないよね。小僧さんはお札を使うだけだ。
リュティ先生いわく。
「贈物は、主人公の孤立性を反映している。主人公の外部との結びつきは直接的、持続的なものではなくて、贈物によって、しかもはっきり目に見える孤立した個体の贈物によって媒介される。そしてその贈物は主人公と一体となるようなものでなく、主人公はそれをひとつの外面的なものとして受けとり、使用し、後でまた捨ててしまう。」
援助者との関係は、贈物という具体的なものであらわされるということ、わかりましたね。そして、その贈物は、「主人公と一体と」ならない、つまり日常の生活では使わない、一生涯使うというものではないといっています。その時限り役に立つもので、永続的には使えない。時間的に孤立しているからです。
孤立した主人公は、孤立した援助者から、孤立した贈物をもらうのです。
贈り物が孤立しているって、どういうこと?
たとえば、「尻鳴りべら」のへら、しゃもじですね、これは主人公が庄屋の娘のおしりを鳴らすときだけ使います。ご飯をよそうときには使いません、しゃもじが本来持っているべき環境から孤立しているのです。 そして、孤立しているもの同士だから、主人公と贈物はたがいに結びつくことができるのです。
普遍的結合の可能性だ!
ここで、昔話に登場する贈物にどんなものがあるか、思い出してみましょう。
う~ん。この語りの森の昔話のなかから探してみるね。こんなのはどう?
奇跡の贈物について、リュティはつぎのようにいっています。
リュティ先生いわく。
「奇跡の贈物は、昔話の中の贈物一般の高揚された(レベルアップされた)ものでしかない。主人公はかならず、ちょうどそのとき必要としているものをもらうということ自体、すでに十分に奇跡である。贈り物と課題、贈物と危機が正確に対応していること、あらゆる状況がぴたりとあうこと、それは昔話の抽象的様式に属する。奇跡とは、その(抽象的)様式の究極の、もっとも完全な表現である」 ( )内は村上補注
ここで「奇跡」という言葉が出てきました。
「ちょうどそのとき必要としているものをもらう」「贈り物と課題、贈物と危機が正確に対応している」「あらゆる状況がぴたりとあう」。何か思い出しませんか?
一致だ! 状況の一致、場所の一致、時間の一致、条件の一致! 「抽象性」のところで考えたよね。さあ、復習だ。→こちら
この一致するように語ることが、昔話の奇跡性を生んでいるのです。
こんな一致は実際の人生ではめったにありません。もしあれば、わたしたちは奇跡だと感じますよね。でも昔話では、あちこちに一致がでてくるし、登場人物たちはちっとも奇跡だと感じていません。写実的ではない、抽象的な表現方法なのです。
さて贈り物をくれるのは、彼岸からの援助者です。
ここで彼岸の存在の孤立性についてお話してから、「主人公」について考えることにしましょう。
リュティ先生いわく。
「彼岸的登場者は、よく整えられた、展望のきく全体に組みこまれているわけではない。われわれが彼ら彼岸的人物を見るのは、彼らが話のすじのなかへふみこんできたときだけであり、したがって彼らの活動のほんの一部を見かけるにすぎない。しかしその活動の一部分は、話のすじの構造のなかへ有意義に組みこまれる」
小澤俊夫先生は、「馬方山姥」が分かりやすい例だとおっしゃいます。
峠の松の木のかげからとびだしてきて追いかけてくる山姥、ふだんはどんな生活をしているのでしょう。どんな苦い経験を経て山姥などになったのでしょう。仲間はいるのでしょうか。そのような全体は昔話では説明されません。ストーリーに必要なときに現れて去るのみです。
「やまなしとり」で三兄弟に助言をするおばあさんも、そんなふうに登場します。
「灰かぶり」でむすめにドレスを投げ落としてくれる白い鳥。わたしたちは母親のたましいだと感じはしますが、おはなしのなかでは一切説明されていません。よし母親のたましいだとしても、どうやって白い鳥になったのか、ふだんはどこにいて何をしているのか明かされません。必要なときに現れて必要なものを落としていってくれるだけです。「話のすじの構造のなかへ有意義に組みこまれている」だけなのです。
彼岸者も孤立的に描かれているんだね。
もうひとつ、それに関連して「無効力のモティーフ」について少し説明しておきます。
「仙人の教え」で息子が旅立つときに持っていく「むぎこがし」や、「七羽のカラス」でむすめが持っていく「パン、水、いす」。
後になってそれがなにか効力を発揮するかといえば、そうではない。まったく忘れ去られます。桃太郎のきびだんごのような力は持っていません。そのときにストーリー的に必要なだけなのです。必要なときに現れてあとはまったく顧みられないモティーフです。
このようなものを「無効力のモティーフ」といって、昔話のあちこちに散見します。
後で忘れ去られるのになぜ登場するのか。
語ってみると分かりますが、「むぎこがし」にしても「パン、水、いす」にしても、とても具体的なものでイメージしやすく、聞き手はぐっと集中して聞きます。旅立つ前の準備、その緊張感が生まれます。ストーリーにとってなくてはならないものなのです。
さて、次回、いよいよ昔話の主人公について考えます。