なぜ子どもに昔話を?

みなさんのレパートリーには、創作文学と昔話のふたつのジャンルがありますね。

ここでは、昔話を語ることについて取り上げます。というのは、世間でよく、昔話を子どもに与えてよいのかといわれることがあるからです。残酷だとか、あまりにも勧善懲悪が過ぎるとか、単純すぎるとか。けれども、私たちは、子どもが昔話が好きで、とてもよく聞くということを知っています。

子どもはなぜ昔話が好きなのか、与えてはいけないという意見にどう反論すればいいのかと考えていたとき、マックス・リュティの論文に出会いました。『昔話と伝説』のなかの「昔話」(高木昌史・髙木万里子訳/法政大学出版局)です。そこで、一語り手として、謙虚に、できるだけ本質をそこなわないようにして、まとめてみたいと思います。

まず、リュティは、「(子どもの)精神的な体験は高度なレヴェルでなおイメージ的な体験である」と、子どもを定義しています。
子どもは、精神的なことも含め、様々なことがらをイメージでとらえています。だから、おはなしを聞いているとき、幼い子どもは、イメージできないとストーリーが理解できません。大人は、イメージよりも意味・概念が先行します。
 
たとえば、「おむすびが入った穴の中におじいさんが入る」場面は、子どもは自然にイメージできるので、おどろきながらも受け入れられますが、大人は、論理的にあり得ないことは、子供だましだと感じます。「あなのはなし」では、大人は、結末まで「あな」の存在・意味が気になり続け、テーマが理解できないことがままあります。 

物語のストーリーというのは、じつは、聞き手にとってすべて「精神的な体験」ですね(つまり現実のことではない)。そして、上記のような特質を持つ子どもにとって、昔話は「精神的養分」なんだとリュティはいいます。

引用

「子供がうっとりと昔話に耳を傾けている様子を一度でも見たことのある人ならば、子供がそれを必要としていることを疑うことはできない」

つまり、子どもはイメージの世界に生きている。その子どもたちに応えるものを昔話は持っていて、子どもの心に栄養を与える、ということです。ほんとうに、昔話にはそのような力があるのでしょうか。

以下、4項目に分けてリュティの考えを紹介します。

1、文章表現(様式)

「子供は鋭い輪郭と強い色彩を欲しがる」と、リュティはいいます。あいまいでぼんやりしたものや、複雑な事がらは、イメージするのが難しいからです。それに対して、昔話は、くっきりした線でストーリーや物を語り、主人公もエピソードも孤立して、それ自身で完結しています。人物も少なく、ストーリーも単純に一直線に進みます。(このことは、《昔話の語法》に詳しく説明しています。)
 
これが、昔話が子どもを引きこむ原動力になっているのです。
 
それから、子どもは、思いがけない空想を次つぎと生み出して楽しみます。ごっこ遊びを見ていると分かりますね。これを「空想力の放浪願望」とリュティはいいます。そして、昔話は、立ちどまって説明することなく、「場所から場所へ、エピソードからエピソードへと迅速に突き進む」というきまりがあります。これも、子どもの心をとらえて先へ先へと導いていく原動力です。

これが、昔話が子どもをとらえて放さないからくりです。でも、文章表現の魅力だけが、子どもをとらえて放さない原因でしょうか?中身はどうでしょうか。 

2、リュティは、次のようにいいます。

「子供は、昔話のイメージの中で、人間にとって必要であり、子供自身の中で実現されることを望んでいるかあるいは子供が巻き込まれるにちがいない精神や魂の出来事と葛藤を理解する」

むずかしいですが、大切な事です。平たく言えば、昔話の世界に入りこんでいるうちに、精神的な何かを体験する、ということです。その体験は、人間にとって必要で、いつか実際に体験することであり、子ども自身もその体験を求めている、というのです。
 
これは、中学年以上の子どもが本格昔話を身を乗り出して聞くときの様子を思い浮かべれば、納得できるでしょう。グリムの「忠実なヨハネス」「金の鳥」、日本の「お月お星」「手なし娘」、ノルウェーの「心臓がからだの中にない巨人」などなど、夢中になっている子どもたちの瞳を、いくらでも思いうかべることができます。

「個々の昔話はどれも精神的な出来事や魂の発展を映し出す」
「さまざまな課題を出された人間、そしておのれの力で、此岸と彼岸の援助者と協力して、これらの課題を解決すべき使命を帯びた人間のイメージ」

それこそが、昔話が描く人間像で、子どもは、その人間像を自分の中にとりこんで、幸せを感じるというのです。

3、昔話では、善い人が報いられ、悪人は罰せられるのがふつうです。けれども、ときには、人をだましたり、約束を守らなかったりする主人公や、怠け者が幸せになる話もあります。このことについて、リュティは、

「人生の真実を描き出すものが子供に害を与えることはほとんどない」

といっています。
 
つまり、昔話で描かれる人間は、道徳的な理想像ではなくて、もっと現実的で本質的な真実だというのでしょう。自分の心をのぞいたとき、善い部分と悪い部分がありますね。悪い部分にふたをすることなく、昔話は描いていきます。そして、それを頭から否定せず、まずは肯定するのです。

4、その上で、

「善なる者への報酬と悪なる者への処罰は、子供の倫理的な発達を促進する」

というのです。

「主人公が報われることによって、子供は善なる原理が勝利することを体験し、悪人を殺すことによって悪の克服をみずからの中で体験する」

ここで、悪人が殺されることの重要さが述べられていますね。悪者はなぜ殺されなければいけないのか、それは、子どもにとって、悪を克服することだからです。最初にもどると、昔話は、精神的体験でしたね。現実の物語ではありません。ファンタジーだということを子どもは知っています。現実と物語の世界をはっきり分けています。
 
主人公に同化する中で、善は勝ち悪は滅びるという倫理観を持つことができるのです。喜びとともに。
 
厳しい処罰については、一般に残酷だと批判されることがありますが、それは当たりません。昔話は、極端に語るという表現方法をもっているからです。写実的な小説のように残酷な描写はしません。わたしたちは、その場面を語るとき、できる限りさらりと語らなければなりませんね。そして、悪が滅びる再話を選んで語りたいものです。

以上のように述べた後、結論として、リュティは、

「6歳から9歳あるいは10歳までの子供にとって、こういった昔話は実際、精神的な糧となるのである」

と書いています。
 
私自身の実感からは、もう少し高い年齢まで含めたいと思いますが。
 
自信を持って昔話を語りましょう。ただし、昔話の本来のかたちをくずさない良いテキストを選ばなければなりませんね。
あなたの語っている昔話の再話は、上記の4項目をクリアしていますか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です