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テキストを整える4

語りで重要なのは、耳から入ってくる音声をくっきりとイメージできることです。何の苦労もなくイメージできれば、聞き手は、ひたすらストーリーを追っていけます。
ストーリーテリング・昔話は、ストーリーを追うことで、登場人物の経験を追体験して、テーマをつかむことができるのです。

1, 聞き手がイメージしにくいとき(つづき)
前回、前々回でお話したことに、もう少し付け加えます。

c、漢語を和語に置きかえる。

日本語は、発音が同じで意味の違う言葉がよくあります。とくに、漢語(熟語)に多いです。それで、耳で聞いているだけだと意味を誤解してしまうことがあります。そんなときは、和語(日本古来の言葉)に置きかえます。
例)
東方からやって来るトーホーが東方なのかどこかの地名なのか、すぐにわかりません。そこで、東の方からやって来るとします。
日光日の光、お日さまの光
逃亡する逃げ出す

d、書き言葉を話し言葉に置きかえる

これは必ずしも誤解が生じるわけではありませんが、話し言葉にすることで、耳になじみやすくなります。
例)
しかしけれども
またそれから
彼、彼女⇒(人物名)名前で言うことで、ダイレクトにだれのことか分かります。

ただし、cもdも、置きかえる語は、置きかえる前の語と意味がイコールでなければなりません。適切な語が思いつかなければ、もとのままにしておきます。

テキストに手を入れてもよい場合のふたつめと三つめです。

2 ことばづかいが文法的に間違っているとき。

これは、学校で学ぶ国語の力に頼りましょう。
助詞の使い方が間違っていたりすると、なんとなく気持ちが悪いですね。そんなとき、正しく直します。テキストにも誤植があるものです。

3 ことばのリズムが口調に合わないとき。

何度練習してもつっかえてしまう、覚えているのにつっかえてしまう場合があります。そのことで聞き手にストレスを与えるようなら、最後の手段として、言葉を置きかえます。
語り手も生身の人間ですから、うまく発音できない音(おん)もあっておかしくありません。また、土地によって発音が違ったりもします。
そんなときは、もとの文を極力変えないで、でも聞いていて自然な語りにしたいです。

以上、全4回で、テキストを整えることについての、現時点での考えをまとめました。
うまく説明できたか心もとない限りです。
ご質問やご意見がありましたら、コメント欄で発信してください。

テキストを整える3

1,聞き手がイメージしにくいとき(つづき)

b、語順が、目に見える順番と異なっているとき。

語りは音楽と同じく時間の流れに乗った文芸です。ですから、言葉は、発せられた後(しり)から消えてしまいます。しかも、いったん発せられると、そのイメージが定着します。
Aという言葉を聞くとAのイメージが見え、つづいてBという言葉を聞くとBのイメージが見えるという具合に、発せられる順にイメージが見え、後戻りはできません。そして、いったん頭の中に生まれたイメージは、取り消すことができません。

例を挙げてみましょう。
はじめに、文字を読まずに聞いてください。

下記〇の音声

〇 りんごがなっている林の中に、男の子が立っていました。

見えるのは、まず「りんご」、次に「林」という広がりのある空間、次に「男の子」です。

では次はどうでしょう。

下記◆の音声 

◆ 男の子が、林の中に立っていました。そこにりんごがなっていました。

見えるのは、まず「男の子」、次に「林」という広がりのある空間、次に「りんご」です。

いかがですか?語順によって見える光景が変わりませんか?
文字で読めば、ひと目で「りんご」も「林」も「男の子」も見えますから、三つともイメージの強さは同じです。

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では、この文章のつづきを聞き比べてみましょう。

下記〇2の音声

〇2 男の子はりんごをもぎました。ふたつもいで、ポケットに入れました。病気のおかあさんに持って帰ろうと思ったのです。

下記◆2の音声

◆2 「病気のお母さんに持って帰ろう」男の子は、りんごをふたつもいで、ポケットに入れました。

〇2では
男の子はりんごをもぎました」のところで、男の子が手を伸ばしてりんごを取っている絵が見えます。ただ、りんごを次々にもいでいるのか、ひとつだけもいでいるのか、言及していないので、聞き手によってイメージする絵が異なります。
ふたつもいで」→りんごをたくさんもいだ絵をイメージした者は、即座に「ふたつ」に訂正しなくてはいけません。ストーリーを追っていくためには不要な作業です。
病気の~思ったのです」→行動の理由が後付けで説明されています。だから、りんごをもぐ男の子の表情や手の動かし方に誤解が生まれるかも知れません。りんごを遊びでとったとか、お腹がすいて食べるためにとったとか、もしくは、何の表情もイメージしなかったかもしれません。

◆2では
男の子は、りんごをみたとたんに「病気の~」といいます。説明されなくても状況が分かりますね。男の子の表情も見えます。りんごをもぐ動作も、急いでいたり喜びや愛にあふれていたり、聞き手によってある程度の違いはありますが、それでもより明確にイメージが見えます。直後に訂正する必要もありません。さらに「ふたつもいで」というので、個数を訂正する必要もありません。

〇2より◆2のほうが、よりストレートに行動や状況が見える語順になっていますね。

テキストを整える2

では、前回(⇒こちら)おはなしした3つの事柄について、くわしく見ていきましょう。

1, 聞き手がイメージしにくいとき。

a、単語の意味が分からなくて、またはそのものを見たことがなくて、イメージできないときがあります。
これは、聞き手の実体験がカギを握るので、年齢や環境に即して考えなくてはなりません。

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たとえば、いろり
実際に見たことがあるのは小学高学年以上でしょうか。大人でも、その火にあたって暖かさを感じる経験はまれかもしれません。でも、昔話なら、「いろり」という物を指し示すだけで実体は抜いて語りますから、とにかくその形と機能(暖をとる、ものを煮る)さえ知っていればストーリーについてこられます。
となると、絵本で知っている子どももけっこういるでしょうから、語るとき、あまり心配しなくてよさそうです。

たとえば、ふくべ
「ひょうたん」のことだと知っている人は少ないと思います。こんなときは、
①ストーリーの途中で、「ふくべって、ひょうたんのことよ」とことばをはさむ。
②「ふくべ」という言葉は使わないで「ひょうたん」に置き換える。
③おはなしの前に「ふくべって知ってる?」と説明する。

① は、聞き手の集中が途切れないようにしないといけません。説明がないとストーリーが前に進まない場合だけ、この方法をとります。
② は、「ふくべ」という言葉を伝えることができません。これくらいの表現は知ってほしいと思う場合は、この方法は使えません。
③ は、おはなしのなかでのキーワードの場合や、題名に含まれている場合、この方法を使うことができます。ただし、よっぽど印象的な言葉でないと、聞き手は、ストーリーの途中でその言葉が出てきても気づかないし覚えてもいません。

**************

テキストを整える具体例を、さらに、示してみます。

ロシアの昔話「がちょうはくちょう」を『おはなしのろうそく27』のテキストで語るときの例です。5歳児のグループに語る場合を想定します。

*主人公のマーシャが走っていくと、ペーチカのところにやって来ます。
テキスト「・・・ペーチカが立っていました」⇒語り「・・・ペーチカがありました
「立っていました」とすると、人が立っていたように誤解されることがよくありました。そこで、「ありました」とすると、それはモノで、人間や動物ではないことが分かります。さらに、「パンを作る大きなオーブンね」と、さらっと言葉をはさみます。

*ペーチカがマーシャに話しかけます。
テキスト「わたしのなかの黒パンをおあがり」⇒語り「わたしのなかの黒パンをお食べ
小学生になると、「おあがり」とテキスト通りに語っても、自然に理解するのですが、幼児は普段使わない言葉の場合、そこでいったん考えます。その考える間が、ここは不要なので、「お食べ」に変えてしまいます。でも、「おあがり」という表現は覚えてほしいので、もう少し年齢の上の子にはテキスト通りに語るのです。

「がちょうはくちょう」は、スピード感のある物語です。スピーディなストーリーについてくるには、ふだんいじょうに集中力が必要です。単語でつまずいてしまうと、気持ちが離れてしまい、ストーリーから脱落します。また戻ってきても、それまでの緊張感はもうずいぶん途切れてしまっているでしょう。

ステップアップで前におはなしの姿(⇒こちら)ということをお話しましたが、テキストに手を入れるか入れないか、入れるならどう入れるか、ということも、そのおはなしの持つ姿を理解して考えなくてはなりません。そのうえで、聞き手の子どもたちが物語の世界に入れるようなテキストで語りたいものです。

次回は、語順に問題があってイメージしにくい場合についてお話します。

テキストを整える1

おはなしを始めたころは、テキストにある言葉通りにきちんと覚える努力をしてきたと思います。
語りのことばに慣れて、語りをしっかり身につけるためです。
時間はかかりますが、とても大切な作業です。

いっぽう、語りの経験を積んでくると、テキストに手を入れたくなることがあります。つまり、部分的に言葉を変えたくなることが出てきます。
必要ならば、テキストに手を入れてもいいと思います。
むしろ、自分の語り、自分のテキストを作ることは大切ですし、語り手として自然なことだと思います。

ただし、そんなときは、まず、なぜ手を入れたいのかをよく考えましょう。

覚えにくいからという理由で変えることは決してよくありません。
覚えやすい言葉に変えていくと、どんどん安易なほうに流れていって、自分のことばを鍛えることができないからです。これでは、よい語りにはなりません。
しかも、聞き手に焦点があっているわけではなく、語り手の都合でテキストを変えてしまうことになります。
これは、聞き手中心の語りの精神から離れた態度だと思います。

では、どんなときにテキストに手を入れてよいのでしょうか。

1, 聞き手がイメージしにくいとき。
2, ことばづかいが文法的に間違っているとき。
3, ことばのリズムが口調にあわないとき。


このうち、2は正解がすぐにわかりますが、1は聞き手の立場に立たなければできないことなので、少々難しいです。3は音楽的な問題です。

次回から、ひとつひとつ具体的に、くわしく見ていきます。

耳からの読書

子どもが、身近な大人から本を読んで聞かせてもらうことを、耳からの読書といいます。 

人生のはじめは、わらべ歌などを楽しみますが、言葉の意味が分かりはじめると、言葉の音(おん)やリズムを楽しむとともに、ストーリーを楽しめるようになっていきます。

やがて、文字を覚えます。
環境によっては、まだ幼児のうちから、親が知らないまに覚えていることもあるし、学校に行くようになると、先生から教わります。

ただし、文字は読めても、自身の精神的な成長に合った物語を読みこむ力がつくのは、3年生くらいでしょうか。
個人差はありますが、だいたい3年生くらいまでが、耳からの読書の時代といわれています。

でも、子どもは、3年生になったからといって、すぐに喜んで本を読むわけではありません。
文字列のなかにおもしろい世界がかくれていることを知らずにいたら、本を手に取ろうとは思わないと思います。
年齢的にいっても、ギャングエイジ。自我が形成されてきているので、それまでの読書体験がなければ、自分から手を出さない可能性も多々あります。

もし、無理強いされて本嫌いになってしまうなら、その子の人生にとって、何と残念なことでしょう。

以前、低学年で、耳からのおはなしをとても上手に聞く、理解の早い子がいました。
ところが、自分で読んでいる姿を見ると、一字一字拾い読みで、内容を理解することより文字を追うことに夢中でした。
それは段階を追った学習なので、自然で必要なことだと思います。
が、本を読む本当のおもしろさは、わからないでしょう。それを教えられるのは、おとなが読んでやることだと思います。

子どもが自分から、自分で読むからもういらないというまでは、読んでやりましょう。
その時間を惜しまないでほしいと思います。
なぜなら、そのとき、日常生活では気付かないような、物語のなかの良いものが、子どもの中に流れこむからです。それだけでなく、読み手の大人の中にも流れこみます。
そして、それを通じて、子どもと大人が共感しあうことができるからです。

自分で読むようになると、子どもは孤独(悪い意味ではありません)のうちに作者と対します。親はそれを見ているほかありません。子どもの自立を見守るというように、関係が変化します。大人への一歩です。
しかし、その基本にあるのは、かつて共感した読書の喜びなのです。
耳からの読書の時代を、できる限り豊かなものにできればと思います。

ところで、小さい時は絵本が大好きだったんだけど、大きくなったら本を読まなくなったという経験談というか、親の悩みをよく聞きます。
絵本から読み物への移行がスムーズにいかない場合がけっこうあるようです。

その原因はどこにあるのか、個々人によって異なると思いますが、私は、二つ考えられると思います。

ひとつは、絵本の選びがどこかで間違っていたのではないか。幅広い選びは当然のことですが、そのなかで、内面の深いところに届くものも選べていたかどうかということです。
そして、そんな本を何度も何度も咀嚼してきたかどうか。
自分で読むという苦労をしても読みたいと思うためには、表面的なことではないものを求める気持ちがないと、なかなか難しいと思います。苦労する値打ちがあるということを体感していないと、難しいのではないかと思うのです。

もうひとつは、絵本ではなく物語を聞くという経験が浅いのではないかということです。

絵本は、絵というビジュアルなものがあって、絵と文章でひとつの文学として、完結しています。
読み物は、挿絵はあっても補助的で、ほとんどを自分の頭の中で想像し、創造しなければなりません。より主体的に自分の中で完結させなければなりません。

このジャンルの違いを乗り越えるのが難しい場合が多いんだと思います。

ストーリーテリング(語り)は、《おはなし入門》にもあるように、ことばから想像して楽しむものです。そして、聞いて想像する力は、訓練で育まれます。
その子にあったおはなしを読んでやること、語ってやることで、聞く力がつく。

「音としての言葉⇒物語の想像」という過程が、文字を自由に読めるようになったとき、「文字としての言葉⇒物語の想像」へとスムーズに移行するはずです。

絵本は、絵柄やキャラクターだけでも楽しめるものはいくらでもありますが、おはなしは、実質的に、内容だけで子どもを引き付けないと、存在できません。聞いてくれない(笑)
そして、文字だけの読み物も同じ宿命を持っています。

わたしは、できるだけ幼い時から、絵本とおはなしの両輪で文学の楽しさを教えるのがよいと思います。もちろん、義務としてではなく、一緒に楽しむことが前提です。

絵本は、本屋や図書館にいくらでもあってより取り見取りです。ありすぎて選ぶのに苦労するほどです。
けれども、耳で聞くだけで楽しめるおはなしの本は、あまりありません。

おすすめは、昔話です。もともと耳で聞き、口で語られてきたので、聞きやすくできているジャンルだからです。
ところが、昔話絵本は山ほどあるし、読み物としての昔話集もありますが、聞かせるための昔話集が絶対的に少ないのです。
そこで、自分でやろうと考え、語りの森から昔話集を出しました。

声に出して読んでくださったらわかるように、聞いて理解しやすい文章にしています。小説になれた人には、心理描写や情景描写が少ないので味気なく感じるかもしれません。けれども、本来昔話は、ストーリー中心に語りつがれてきて、詳細な描写がないために普遍性を獲得しているのです。幅広い年齢で楽しむことができるはずです。

わが家では、子どもたちが幼い時、寝る前に、絵本を2冊と昔話をいくつか読み、電気を消してからおはなしを語りました。いつも、語りながら、子どもより先に寝てしまいましたけど。
その習慣が子どもの成長にどう影響したかは、わかりません。子育ての結果なんて、求めるのがおかしいですものね。
でも、わたしにとっては、大変な毎日の中での至福の時であったことは間違いありません。

おはなしの姿

おはなしには、おもしろい話、ハラハラする話、ほっと心が温まる話、ロマンティックな話などなど、いろいろな姿がありますね。
冒険譚、小話、動物話、切り無し話。男の子の成長の話。女の子の成長の話。お爺さんお婆さんの話。魔女や山姥が出てくる話。巨人や鬼が出てくる話。小人の話。とくに昔話は、なんてさまざまに彩られていることでしょう。

そんな豊かなおはなしの世界を、どれもこれも同じように、一色に語っていませんか?
 
おはなしは、人のさまざまな生きかたを語っています。とすれば、当然、それを伝えようとする人の心のありさまはその話その話で異なります。

語り手は、ひとつの話を文字として覚えているのではなく、イメージとストーリー ( 文章 ) とその話が訴えかけるすべてを受けとめて自分のものにします。一つひとつが別の話として語り手の中で生きています。それならば、語り手はそのひとつの話を表に出す、つまり表現するとき、その話はほかの話とは別の顔かたちを持っているはずです。
たとえば、「 とりのみじいさん 」 と 「 忠実なヨハネス 」は別の個性をもって私の中で生きています。語るとき、その個性が自然に表に出てきます。

ふだんのおしゃべりでも、楽しいことは楽しく、悲しいことは悲しくしゃべっていますよね。その自然な言語生活の中での昔話の語り、と考えたいと思います。話の持つその自然な姿に敬意をもって語りたいです。それは、語り継いできた人々の思いでもあると思うからです。

これは、おはなしを語る人たちがよく問題にする 「 たんたんと語る 」 とか 「 演じる、演じない 」 とかとは、次元の違うことです。 

さて、では、その話の姿をどうやってとらえるかが次の課題になります。わたしは、類話と子どもが手がかりだと考えています。自分の感性はあまりあてにしていません ( 笑 )。

類話を読み比べて、この話型はそもそもどのように伝えられてきたのだろうと考えます。すると、たとえば、持たざる者の幸せを語っていると信じていた 「 幸せハンス 」 が、じつは、どんでん返しのある笑い話の結末が変化したんだとわかります。グリムさんが意図的にやったとしても、この話、この形で今も生きていますよね。でも類話を読んでからは、私の中で 「 幸せハンス 」 は必ずしも道徳的な姿ではなくなりました。では、どう語るのか。ということになるのです。

つぎに子どもです。語るとき、まず、自分がこうだととらえているおはなしの姿は、自然に出てくるに任せます。いっぽうで語っている自分とは別の自分が、子どもたちに、ねえ、これってどんな話なのかなという問いかけをしています。自信満々で語らない、ということです。すると、子どもは真実をとらえる力が鋭いので、ちゃんと返してくれます。 

昔話は、かつての語り手たちと聞き手たちによって育てられてきたのでしょうね。一つひとつの姿を知ることはとても楽しいです。

おはなしの練習

これは、入門のページに書くべきことかもしれません。いまさらですが、ちょっと考えてみましょう。いったん覚えてからの練習についてです。

語りはじめて何年かたち、レパートリーが少し増えてくると、自分なりの練習方法ができてきます。それはとても良いことです。が、たまにはこれでいいのかと見直すことも必要ではないでしょうか。

というのは、「ある種の話はなかなか覚えられない」とか、「練習ではうまくいくのに、本番では思うように語れない」とか、「自分ではうまく語れているつもりなのに、勉強会で批判される」とか、経験を積むにしたがってさまざまな問題がつぎつぎにおそいかかってきます。その原因が練習量と練習方法にあるのではないかと、私は思うのです。もちろん、自戒を込めて、です。 

まず、練習量。

覚えるのが早い人っています。また、話によってはとても早く覚えられたりもします。でも、おはなしは、言葉を覚えたらそれでいいというものではありません。その言葉を血肉に変えるためには、時間が必要です。繰り返し繰り返し自分に聞かせる。しばらく寝かせてからまた取りだして練習する。

私は、自分で再話した話や日常語に直した話は、すぐに覚えられるのですが、安心しているとすぐに忘れてしまいます。イメージやストーリーは忘れないのですが、「これぞ」と思った大事な言葉が口にできなかったりして、とっても悔しい思いをします。

練習、練習、また練習です(笑)
そうやって言葉を定着させます。 

つぎに、練習方法。

1、大きな声で練習しましょう。

丹田を意識してお腹から声を出します。
これは、実際のおはなし会で子どもたちに語るときの発生の仕方ですね。部屋の大きさと聞き手の人数に合わせて、全員が苦労せずに聞き取れる声を出さないといけません。ふだんからその声で練習します。

声くらい本番になったら出せるだろうと高をくくってはいけません。本番では練習の時以上の語りはできないと肝に銘じておくべきです。
モソモソと練習して完璧に仕上がったと思っても、さて大きな声で練習しようとすると、詰まったりすることはよくあります。ウォーキングしながら繰り返し練習するだけでは、実践力にはならないのです。まあ、よっぽど肝っ玉の太い人や地声の大きい人は別ですけどね。 

2、たまには、いろいろな語りかたを試してみましょう。

例えば、読点を無視して、一文をひと息に語る。早口言葉のようにぺらぺら語る。一語ずつ丁寧に確かめるように語る。役者のように思い切り演技してみる。思い切りつまらなく棒読みする。一定のテンポで家の中を歩き回りながら語る。
あくまでも、練習、試すだけですよ。極端にやってみて、ちょうどいいと自分が感じる語りかたを模索してみてください。そうすれば自分の語りかたに幅と厚みが出てきます。お話にはそれぞれ姿があることは前回書きました。その姿に適した語りかたが自然にできるようになるための練習です。

また、ひとつのおはなしの流れなのかでも、早く進むところやじっくりイメージしたいところ、ハラハラドキドキしたいところなど、さまざまに山あり谷ありですよね。それをくっきりイメージできるように語るためには、いつも同じ一本調子ではだめですよね。

自在に表現するためには、極端な練習も役に立ちます。いつもいつも自分の理想形ばかり追うよりも、自由度が増して、練習が楽しいです。

笑い話

「おはなしの姿」に書いたように、笑い話には、笑い話の姿があります。それは、笑いを提供しようというおもてなしの気持ちから生まれます。

子どもの笑顔や笑い声っていいですよね。
でも、子どもがなかなか笑ってくれないという経験はありませんか。
 
笑いは、間(ま)がすべてです。ひとつ外すと悲惨な結果を招きます。わたしは、おはなしを始めたころ「ホットケーキ」でこけました。最初から最後までしーんとして聴かれてしまったのです。長い話なので、どうしようもなくて、泣きそうになりましたよ(笑)。その体験の後しばらく「ホットケーキ」は封印しました(笑)。でも、いつの間にか語れるようになりました。いまは笑わせようと思わなくても笑ってくれます。 

間(ま)というのは、体得するしかないものだと思います。もちろん、考えるし、計算もします。それは、語りながらの計算です。まえもって作った間で語ってもだめなのです。語りながら、聞き手の返してくる間で瞬時に計算して、次の言葉を出す。

ただ、わたしたちの語っているテキストは、特別難しいもの、特に読むために書かれた創作物でなければ、きちんとイメージできるように語りさえすれば、たいていは笑ってくれます。「ホットケーキ」でこけたのは、笑わせようと焦って、イメージより雰囲気を伝えようとしたからだと思います。それで間がとれなかった。 

つまり、まず聞き手がしっかりイメージできるように語るという基本を忘れないことです。つぎに、聞き手の返してくる息をきちっと読みとることです。そして、その聞き手の求めているものを誠実に返すことです。これで「間」が生まれます。 

そう考えると、間が大切なのは笑い話だけではないことに気づかれるでしょう。はらはらドキドキの冒険物語も、怖い話やジャンピングストーリーも、間をうまくとれないと、ストーリーの面白さは半減します。でもそれらのタイプの話は、失敗していても気づきにくいのです。笑い話は、失敗するとそれが目に見えるから恐いだけなのです。逆にいうと、笑い話で「間」の練習をすればいいということです。 

笑い話には、頭をちょっとひねって考えなければわからないものと、ナンセンスで笑わせるものと、音の面白さやリズムで笑わせるものとがあります。たいていのはなしは、それらが融合しています。考える話やナンセンスな話は年齢の上の子ども、音や繰り返しのリズムによる笑い話は幼い子に向いています。

恐い話

前回、笑い話は失敗したとき、失敗があからさまになると書きました。笑ってもらえなくていたたまれなくなるんですね。

それに対して、恐い話の場合は、もともと、子どもは虚勢を張って「恐くない」といいますから、ほんとうは恐いのに恐くないといっているだけなのか、ほんとうに恐くなくてがっかりしているのか、現象としてはっきりあらわれません。

ただ、子どもは、ほんとうに恐いときは、笑います。 

恐い話には、いくつかのパターンがあります。

「ジャックと豆の木」や、「食わず女房」や、「ババ・ヤガー」、「日と月と星」のように、大男や鬼婆などの自分に危害を加えるものから逃げる話を、子どもたちは恐がります。ただ、これは得体のしれないものへの恐怖心ではありませんね。スリルを楽しむのです。はらはらどきどきしながら、恐さに耐えて聞きます。昔話は、かならず主人公が勝ちます。最後は幸せになることが分かっているので、長い話でも恐さに耐えることができます。次から次におそいかかる危地から脱出するたびに、子どもたちは笑いますね。緊張が緩和したときに起こる笑いです。

ただし、子どもはひとりひとり感性が違うので、語り手は子どもの表情を読みとって、恐がらせすぎないように気をつけなくてはなりません。 

得体のしれないものにぞっとする話。子どもたちの好きな「学校の怪談」のような話もあります。「山姥と桶屋」、「死人の手」、「こんな目かあ」、「九尾の狐」などです。たいていは1モティーフの短い話です。

この類の話を語るときは、語り手は、子どもたちの「恐がらせて!」という要求に、思いきり楽しみながらよろこんで応えるといいです。声の音の高低や大小、表情も使います。恐い話も「間」が命ですが、この間をとるのは、笑い話ほど難しくありません。きっと大人は子どもを恐がらせるのが本来好きなのかもしれないと思ったりもします。

ただし、この類の話は最後がハッピーエンドであることは少ないので、子どもの心を恐怖で傷つけていないか、注意が必要です。親しい間柄の子どもに語りましょう。 

もうひとつ、聞き手を物語の最後でびっくりさせる話があります。ジャンピング・ストーリーともいいます。
「くらいくらい」、「ちいちゃいちいちゃい」『イギリスとアイルランドの昔話』石井桃子訳福音館書店刊、「金の腕」『おはなしのろうそく』東京子ども図書館、などです。

語り手は最後の一言で突然大きな声を発し、聞き手を跳び上がらせます。最後の一言に向けて声の大きさをディミニエンドしていきます。このディミニエンドによって、逆に、聞き手の恐怖や不安がクレッシェンドしていきます。

ジャンピングストーリーは語るのはとても楽しいのですが、突然大きな音がすると硬直する子どもがいるので、大丈夫かどうか前もって確認しておく必要があります。 

どのタイプの話にしても、子どもを恐がらせすぎないようにすることが重要です。

おはなし会のプログラム1

おはなしの時間が終わったとき、子どもたちに「ああおもしろかった」と思ってもらいたいですよね。
この「ああおもしろかった」は、わたしたちがよい本を読んだ後の、またはよい映画を観た後の充足感に似ていると思います。深い感動であったり、軽やかな笑いであったり。

そのためには、まず、その子たちにぴったりのおはなしを選ばなくてはなりません。その子たちの聞く力や心の成長にぴったりの話を選ぶことから、おはなし会のプログラム作りが始まります。 

場合分けして考えてみます。

1、定期的に学校等に出向く場合。 週一回、月一回、学期に一回などです。(年一回は定期的とは言えませんね、イベントです) 

定期的にいく場合は、きちんと記録をとり、反省も書き入れましょう。次回の話を選ぶときの参考にするためです。今回この話がきけたのだから、つぎはこちらの話も聞けるだろう、などと考えて、子どもの成長に合わせて話を選ぶことができます。 

2、不定期、イベント的に出向く場合。

冒険はせず、これまでの経験から確実に楽しめる話を選んで持っていきましょう。難易度でいうと、定期的なおはなし会より1学年下の話を選ぶと無難です。聞きなれていない子にとって、理解しにくい話を聞かされるのは苦行ですから。またききたいなと思ってもらいたいですよね。 

3、不特定多数の場合。

図書館や、地域の子ども会などでは、どの年齢の子が、何人参加するかわからない。聞きなれた子もいればはじめてお話を聞く子もいる。参加の目的もさまざまだったりします。選ぶのが最も難しいケースです。そんなときは、できるだけ幅広く喜ばれる話(たいていは昔話)をいくつか用意しましょう。

30分のおはなし会なら、60分ぶん、用意します。幼い子も高学年の子も、それぞれが少なくともひとつは「おもしろかった」と満足できるようにかんがえましょう。大きい子が来ていたら、幼い子向けのものだけでなく、様子を見て大きい子向けのものも思い切ってやる。そうすれば、たとえば図書館のおはなし会の低年齢化が少しは防げるかもしれません。