おはなしには、おもしろい話、ハラハラする話、ほっと心が温まる話、ロマンティックな話などなど、いろいろな姿がありますね。
冒険譚、小話、動物話、切り無し話。男の子の成長の話。女の子の成長の話。お爺さんお婆さんの話。魔女や山姥が出てくる話。巨人や鬼が出てくる話。小人の話。とくに昔話は、なんてさまざまに彩られていることでしょう。
そんな豊かなおはなしの世界を、どれもこれも同じように、一色に語っていませんか?
おはなしは、人のさまざまな生きかたを語っています。とすれば、当然、それを伝えようとする人の心のありさまはその話その話で異なります。
語り手は、ひとつの話を文字として覚えているのではなく、イメージとストーリー ( 文章 ) とその話が訴えかけるすべてを受けとめて自分のものにします。一つひとつが別の話として語り手の中で生きています。それならば、語り手はそのひとつの話を表に出す、つまり表現するとき、その話はほかの話とは別の顔かたちを持っているはずです。
たとえば、「 とりのみじいさん 」 と 「 忠実なヨハネス 」は別の個性をもって私の中で生きています。語るとき、その個性が自然に表に出てきます。
ふだんのおしゃべりでも、楽しいことは楽しく、悲しいことは悲しくしゃべっていますよね。その自然な言語生活の中での昔話の語り、と考えたいと思います。話の持つその自然な姿に敬意をもって語りたいです。それは、語り継いできた人々の思いでもあると思うからです。
これは、おはなしを語る人たちがよく問題にする 「 たんたんと語る 」 とか 「 演じる、演じない 」 とかとは、次元の違うことです。
さて、では、その話の姿をどうやってとらえるかが次の課題になります。わたしは、類話と子どもが手がかりだと考えています。自分の感性はあまりあてにしていません ( 笑 )。
類話を読み比べて、この話型はそもそもどのように伝えられてきたのだろうと考えます。すると、たとえば、持たざる者の幸せを語っていると信じていた 「 幸せハンス 」 が、じつは、どんでん返しのある笑い話の結末が変化したんだとわかります。グリムさんが意図的にやったとしても、この話、この形で今も生きていますよね。でも類話を読んでからは、私の中で 「 幸せハンス 」 は必ずしも道徳的な姿ではなくなりました。では、どう語るのか。ということになるのです。
つぎに子どもです。語るとき、まず、自分がこうだととらえているおはなしの姿は、自然に出てくるに任せます。いっぽうで語っている自分とは別の自分が、子どもたちに、ねえ、これってどんな話なのかなという問いかけをしています。自信満々で語らない、ということです。すると、子どもは真実をとらえる力が鋭いので、ちゃんと返してくれます。
昔話は、かつての語り手たちと聞き手たちによって育てられてきたのでしょうね。一つひとつの姿を知ることはとても楽しいです。