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耳からの読書

子どもが、身近な大人から本を読んで聞かせてもらうことを、耳からの読書といいます。 

人生のはじめは、わらべ歌などを楽しみますが、言葉の意味が分かりはじめると、言葉の音(おん)やリズムを楽しむとともに、ストーリーを楽しめるようになっていきます。

やがて、文字を覚えます。
環境によっては、まだ幼児のうちから、親が知らないまに覚えていることもあるし、学校に行くようになると、先生から教わります。

ただし、文字は読めても、自身の精神的な成長に合った物語を読みこむ力がつくのは、3年生くらいでしょうか。
個人差はありますが、だいたい3年生くらいまでが、耳からの読書の時代といわれています。

でも、子どもは、3年生になったからといって、すぐに喜んで本を読むわけではありません。
文字列のなかにおもしろい世界がかくれていることを知らずにいたら、本を手に取ろうとは思わないと思います。
年齢的にいっても、ギャングエイジ。自我が形成されてきているので、それまでの読書体験がなければ、自分から手を出さない可能性も多々あります。

もし、無理強いされて本嫌いになってしまうなら、その子の人生にとって、何と残念なことでしょう。

以前、低学年で、耳からのおはなしをとても上手に聞く、理解の早い子がいました。
ところが、自分で読んでいる姿を見ると、一字一字拾い読みで、内容を理解することより文字を追うことに夢中でした。
それは段階を追った学習なので、自然で必要なことだと思います。
が、本を読む本当のおもしろさは、わからないでしょう。それを教えられるのは、おとなが読んでやることだと思います。

子どもが自分から、自分で読むからもういらないというまでは、読んでやりましょう。
その時間を惜しまないでほしいと思います。
なぜなら、そのとき、日常生活では気付かないような、物語のなかの良いものが、子どもの中に流れこむからです。それだけでなく、読み手の大人の中にも流れこみます。
そして、それを通じて、子どもと大人が共感しあうことができるからです。

自分で読むようになると、子どもは孤独(悪い意味ではありません)のうちに作者と対します。親はそれを見ているほかありません。子どもの自立を見守るというように、関係が変化します。大人への一歩です。
しかし、その基本にあるのは、かつて共感した読書の喜びなのです。
耳からの読書の時代を、できる限り豊かなものにできればと思います。

ところで、小さい時は絵本が大好きだったんだけど、大きくなったら本を読まなくなったという経験談というか、親の悩みをよく聞きます。
絵本から読み物への移行がスムーズにいかない場合がけっこうあるようです。

その原因はどこにあるのか、個々人によって異なると思いますが、私は、二つ考えられると思います。

ひとつは、絵本の選びがどこかで間違っていたのではないか。幅広い選びは当然のことですが、そのなかで、内面の深いところに届くものも選べていたかどうかということです。
そして、そんな本を何度も何度も咀嚼してきたかどうか。
自分で読むという苦労をしても読みたいと思うためには、表面的なことではないものを求める気持ちがないと、なかなか難しいと思います。苦労する値打ちがあるということを体感していないと、難しいのではないかと思うのです。

もうひとつは、絵本ではなく物語を聞くという経験が浅いのではないかということです。

絵本は、絵というビジュアルなものがあって、絵と文章でひとつの文学として、完結しています。
読み物は、挿絵はあっても補助的で、ほとんどを自分の頭の中で想像し、創造しなければなりません。より主体的に自分の中で完結させなければなりません。

このジャンルの違いを乗り越えるのが難しい場合が多いんだと思います。

ストーリーテリング(語り)は、《おはなし入門》にもあるように、ことばから想像して楽しむものです。そして、聞いて想像する力は、訓練で育まれます。
その子にあったおはなしを読んでやること、語ってやることで、聞く力がつく。

「音としての言葉⇒物語の想像」という過程が、文字を自由に読めるようになったとき、「文字としての言葉⇒物語の想像」へとスムーズに移行するはずです。

絵本は、絵柄やキャラクターだけでも楽しめるものはいくらでもありますが、おはなしは、実質的に、内容だけで子どもを引き付けないと、存在できません。聞いてくれない(笑)
そして、文字だけの読み物も同じ宿命を持っています。

わたしは、できるだけ幼い時から、絵本とおはなしの両輪で文学の楽しさを教えるのがよいと思います。もちろん、義務としてではなく、一緒に楽しむことが前提です。

絵本は、本屋や図書館にいくらでもあってより取り見取りです。ありすぎて選ぶのに苦労するほどです。
けれども、耳で聞くだけで楽しめるおはなしの本は、あまりありません。

おすすめは、昔話です。もともと耳で聞き、口で語られてきたので、聞きやすくできているジャンルだからです。
ところが、昔話絵本は山ほどあるし、読み物としての昔話集もありますが、聞かせるための昔話集が絶対的に少ないのです。
そこで、自分でやろうと考え、語りの森から昔話集を出しました。

声に出して読んでくださったらわかるように、聞いて理解しやすい文章にしています。小説になれた人には、心理描写や情景描写が少ないので味気なく感じるかもしれません。けれども、本来昔話は、ストーリー中心に語りつがれてきて、詳細な描写がないために普遍性を獲得しているのです。幅広い年齢で楽しむことができるはずです。

わが家では、子どもたちが幼い時、寝る前に、絵本を2冊と昔話をいくつか読み、電気を消してからおはなしを語りました。いつも、語りながら、子どもより先に寝てしまいましたけど。
その習慣が子どもの成長にどう影響したかは、わかりません。子育ての結果なんて、求めるのがおかしいですものね。
でも、わたしにとっては、大変な毎日の中での至福の時であったことは間違いありません。

おはなしの姿

おはなしには、おもしろい話、ハラハラする話、ほっと心が温まる話、ロマンティックな話などなど、いろいろな姿がありますね。
冒険譚、小話、動物話、切り無し話。男の子の成長の話。女の子の成長の話。お爺さんお婆さんの話。魔女や山姥が出てくる話。巨人や鬼が出てくる話。小人の話。とくに昔話は、なんてさまざまに彩られていることでしょう。

そんな豊かなおはなしの世界を、どれもこれも同じように、一色に語っていませんか?
 
おはなしは、人のさまざまな生きかたを語っています。とすれば、当然、それを伝えようとする人の心のありさまはその話その話で異なります。

語り手は、ひとつの話を文字として覚えているのではなく、イメージとストーリー ( 文章 ) とその話が訴えかけるすべてを受けとめて自分のものにします。一つひとつが別の話として語り手の中で生きています。それならば、語り手はそのひとつの話を表に出す、つまり表現するとき、その話はほかの話とは別の顔かたちを持っているはずです。
たとえば、「 とりのみじいさん 」 と 「 忠実なヨハネス 」は別の個性をもって私の中で生きています。語るとき、その個性が自然に表に出てきます。

ふだんのおしゃべりでも、楽しいことは楽しく、悲しいことは悲しくしゃべっていますよね。その自然な言語生活の中での昔話の語り、と考えたいと思います。話の持つその自然な姿に敬意をもって語りたいです。それは、語り継いできた人々の思いでもあると思うからです。

これは、おはなしを語る人たちがよく問題にする 「 たんたんと語る 」 とか 「 演じる、演じない 」 とかとは、次元の違うことです。 

さて、では、その話の姿をどうやってとらえるかが次の課題になります。わたしは、類話と子どもが手がかりだと考えています。自分の感性はあまりあてにしていません ( 笑 )。

類話を読み比べて、この話型はそもそもどのように伝えられてきたのだろうと考えます。すると、たとえば、持たざる者の幸せを語っていると信じていた 「 幸せハンス 」 が、じつは、どんでん返しのある笑い話の結末が変化したんだとわかります。グリムさんが意図的にやったとしても、この話、この形で今も生きていますよね。でも類話を読んでからは、私の中で 「 幸せハンス 」 は必ずしも道徳的な姿ではなくなりました。では、どう語るのか。ということになるのです。

つぎに子どもです。語るとき、まず、自分がこうだととらえているおはなしの姿は、自然に出てくるに任せます。いっぽうで語っている自分とは別の自分が、子どもたちに、ねえ、これってどんな話なのかなという問いかけをしています。自信満々で語らない、ということです。すると、子どもは真実をとらえる力が鋭いので、ちゃんと返してくれます。 

昔話は、かつての語り手たちと聞き手たちによって育てられてきたのでしょうね。一つひとつの姿を知ることはとても楽しいです。

おはなしの練習

これは、入門のページに書くべきことかもしれません。いまさらですが、ちょっと考えてみましょう。いったん覚えてからの練習についてです。

語りはじめて何年かたち、レパートリーが少し増えてくると、自分なりの練習方法ができてきます。それはとても良いことです。が、たまにはこれでいいのかと見直すことも必要ではないでしょうか。

というのは、「ある種の話はなかなか覚えられない」とか、「練習ではうまくいくのに、本番では思うように語れない」とか、「自分ではうまく語れているつもりなのに、勉強会で批判される」とか、経験を積むにしたがってさまざまな問題がつぎつぎにおそいかかってきます。その原因が練習量と練習方法にあるのではないかと、私は思うのです。もちろん、自戒を込めて、です。 

まず、練習量。

覚えるのが早い人っています。また、話によってはとても早く覚えられたりもします。でも、おはなしは、言葉を覚えたらそれでいいというものではありません。その言葉を血肉に変えるためには、時間が必要です。繰り返し繰り返し自分に聞かせる。しばらく寝かせてからまた取りだして練習する。

私は、自分で再話した話や日常語に直した話は、すぐに覚えられるのですが、安心しているとすぐに忘れてしまいます。イメージやストーリーは忘れないのですが、「これぞ」と思った大事な言葉が口にできなかったりして、とっても悔しい思いをします。

練習、練習、また練習です(笑)
そうやって言葉を定着させます。 

つぎに、練習方法。

1、大きな声で練習しましょう。

丹田を意識してお腹から声を出します。
これは、実際のおはなし会で子どもたちに語るときの発生の仕方ですね。部屋の大きさと聞き手の人数に合わせて、全員が苦労せずに聞き取れる声を出さないといけません。ふだんからその声で練習します。

声くらい本番になったら出せるだろうと高をくくってはいけません。本番では練習の時以上の語りはできないと肝に銘じておくべきです。
モソモソと練習して完璧に仕上がったと思っても、さて大きな声で練習しようとすると、詰まったりすることはよくあります。ウォーキングしながら繰り返し練習するだけでは、実践力にはならないのです。まあ、よっぽど肝っ玉の太い人や地声の大きい人は別ですけどね。 

2、たまには、いろいろな語りかたを試してみましょう。

例えば、読点を無視して、一文をひと息に語る。早口言葉のようにぺらぺら語る。一語ずつ丁寧に確かめるように語る。役者のように思い切り演技してみる。思い切りつまらなく棒読みする。一定のテンポで家の中を歩き回りながら語る。
あくまでも、練習、試すだけですよ。極端にやってみて、ちょうどいいと自分が感じる語りかたを模索してみてください。そうすれば自分の語りかたに幅と厚みが出てきます。お話にはそれぞれ姿があることは前回書きました。その姿に適した語りかたが自然にできるようになるための練習です。

また、ひとつのおはなしの流れなのかでも、早く進むところやじっくりイメージしたいところ、ハラハラドキドキしたいところなど、さまざまに山あり谷ありですよね。それをくっきりイメージできるように語るためには、いつも同じ一本調子ではだめですよね。

自在に表現するためには、極端な練習も役に立ちます。いつもいつも自分の理想形ばかり追うよりも、自由度が増して、練習が楽しいです。

笑い話

「おはなしの姿」に書いたように、笑い話には、笑い話の姿があります。それは、笑いを提供しようというおもてなしの気持ちから生まれます。

子どもの笑顔や笑い声っていいですよね。
でも、子どもがなかなか笑ってくれないという経験はありませんか。
 
笑いは、間(ま)がすべてです。ひとつ外すと悲惨な結果を招きます。わたしは、おはなしを始めたころ「ホットケーキ」でこけました。最初から最後までしーんとして聴かれてしまったのです。長い話なので、どうしようもなくて、泣きそうになりましたよ(笑)。その体験の後しばらく「ホットケーキ」は封印しました(笑)。でも、いつの間にか語れるようになりました。いまは笑わせようと思わなくても笑ってくれます。 

間(ま)というのは、体得するしかないものだと思います。もちろん、考えるし、計算もします。それは、語りながらの計算です。まえもって作った間で語ってもだめなのです。語りながら、聞き手の返してくる間で瞬時に計算して、次の言葉を出す。

ただ、わたしたちの語っているテキストは、特別難しいもの、特に読むために書かれた創作物でなければ、きちんとイメージできるように語りさえすれば、たいていは笑ってくれます。「ホットケーキ」でこけたのは、笑わせようと焦って、イメージより雰囲気を伝えようとしたからだと思います。それで間がとれなかった。 

つまり、まず聞き手がしっかりイメージできるように語るという基本を忘れないことです。つぎに、聞き手の返してくる息をきちっと読みとることです。そして、その聞き手の求めているものを誠実に返すことです。これで「間」が生まれます。 

そう考えると、間が大切なのは笑い話だけではないことに気づかれるでしょう。はらはらドキドキの冒険物語も、怖い話やジャンピングストーリーも、間をうまくとれないと、ストーリーの面白さは半減します。でもそれらのタイプの話は、失敗していても気づきにくいのです。笑い話は、失敗するとそれが目に見えるから恐いだけなのです。逆にいうと、笑い話で「間」の練習をすればいいということです。 

笑い話には、頭をちょっとひねって考えなければわからないものと、ナンセンスで笑わせるものと、音の面白さやリズムで笑わせるものとがあります。たいていのはなしは、それらが融合しています。考える話やナンセンスな話は年齢の上の子ども、音や繰り返しのリズムによる笑い話は幼い子に向いています。

恐い話

前回、笑い話は失敗したとき、失敗があからさまになると書きました。笑ってもらえなくていたたまれなくなるんですね。

それに対して、恐い話の場合は、もともと、子どもは虚勢を張って「恐くない」といいますから、ほんとうは恐いのに恐くないといっているだけなのか、ほんとうに恐くなくてがっかりしているのか、現象としてはっきりあらわれません。

ただ、子どもは、ほんとうに恐いときは、笑います。 

恐い話には、いくつかのパターンがあります。

「ジャックと豆の木」や、「食わず女房」や、「ババ・ヤガー」、「日と月と星」のように、大男や鬼婆などの自分に危害を加えるものから逃げる話を、子どもたちは恐がります。ただ、これは得体のしれないものへの恐怖心ではありませんね。スリルを楽しむのです。はらはらどきどきしながら、恐さに耐えて聞きます。昔話は、かならず主人公が勝ちます。最後は幸せになることが分かっているので、長い話でも恐さに耐えることができます。次から次におそいかかる危地から脱出するたびに、子どもたちは笑いますね。緊張が緩和したときに起こる笑いです。

ただし、子どもはひとりひとり感性が違うので、語り手は子どもの表情を読みとって、恐がらせすぎないように気をつけなくてはなりません。 

得体のしれないものにぞっとする話。子どもたちの好きな「学校の怪談」のような話もあります。「山姥と桶屋」、「死人の手」、「こんな目かあ」、「九尾の狐」などです。たいていは1モティーフの短い話です。

この類の話を語るときは、語り手は、子どもたちの「恐がらせて!」という要求に、思いきり楽しみながらよろこんで応えるといいです。声の音の高低や大小、表情も使います。恐い話も「間」が命ですが、この間をとるのは、笑い話ほど難しくありません。きっと大人は子どもを恐がらせるのが本来好きなのかもしれないと思ったりもします。

ただし、この類の話は最後がハッピーエンドであることは少ないので、子どもの心を恐怖で傷つけていないか、注意が必要です。親しい間柄の子どもに語りましょう。 

もうひとつ、聞き手を物語の最後でびっくりさせる話があります。ジャンピング・ストーリーともいいます。
「くらいくらい」、「ちいちゃいちいちゃい」『イギリスとアイルランドの昔話』石井桃子訳福音館書店刊、「金の腕」『おはなしのろうそく』東京子ども図書館、などです。

語り手は最後の一言で突然大きな声を発し、聞き手を跳び上がらせます。最後の一言に向けて声の大きさをディミニエンドしていきます。このディミニエンドによって、逆に、聞き手の恐怖や不安がクレッシェンドしていきます。

ジャンピングストーリーは語るのはとても楽しいのですが、突然大きな音がすると硬直する子どもがいるので、大丈夫かどうか前もって確認しておく必要があります。 

どのタイプの話にしても、子どもを恐がらせすぎないようにすることが重要です。

おはなし会のプログラム1

おはなしの時間が終わったとき、子どもたちに「ああおもしろかった」と思ってもらいたいですよね。
この「ああおもしろかった」は、わたしたちがよい本を読んだ後の、またはよい映画を観た後の充足感に似ていると思います。深い感動であったり、軽やかな笑いであったり。

そのためには、まず、その子たちにぴったりのおはなしを選ばなくてはなりません。その子たちの聞く力や心の成長にぴったりの話を選ぶことから、おはなし会のプログラム作りが始まります。 

場合分けして考えてみます。

1、定期的に学校等に出向く場合。 週一回、月一回、学期に一回などです。(年一回は定期的とは言えませんね、イベントです) 

定期的にいく場合は、きちんと記録をとり、反省も書き入れましょう。次回の話を選ぶときの参考にするためです。今回この話がきけたのだから、つぎはこちらの話も聞けるだろう、などと考えて、子どもの成長に合わせて話を選ぶことができます。 

2、不定期、イベント的に出向く場合。

冒険はせず、これまでの経験から確実に楽しめる話を選んで持っていきましょう。難易度でいうと、定期的なおはなし会より1学年下の話を選ぶと無難です。聞きなれていない子にとって、理解しにくい話を聞かされるのは苦行ですから。またききたいなと思ってもらいたいですよね。 

3、不特定多数の場合。

図書館や、地域の子ども会などでは、どの年齢の子が、何人参加するかわからない。聞きなれた子もいればはじめてお話を聞く子もいる。参加の目的もさまざまだったりします。選ぶのが最も難しいケースです。そんなときは、できるだけ幅広く喜ばれる話(たいていは昔話)をいくつか用意しましょう。

30分のおはなし会なら、60分ぶん、用意します。幼い子も高学年の子も、それぞれが少なくともひとつは「おもしろかった」と満足できるようにかんがえましょう。大きい子が来ていたら、幼い子向けのものだけでなく、様子を見て大きい子向けのものも思い切ってやる。そうすれば、たとえば図書館のおはなし会の低年齢化が少しは防げるかもしれません。

おはなし会のプログラム 2

語り手の事情でお話を選ぶのではなく、聞き手である子どもの成長に焦点を当てて選べば、まずそのおはなし会は半分は成功するでしょう。でも、たとえその子たちにぴったりのおはなしを選んだとしても、うまく組み合わせなければ、全体として重くなったり軽くなりすぎたりしてもったいない時間を過ごすことになりかねません。
ひとつひとつのおはなしが活きるような組み合わせを考えましょう。そのためのヒントをいくつか書いてみます。

1、中心になる話→サブの話→おまけの話の順に組み合わせる

子どもの集中力は最初が一番強くて、時間がたつにつれてだんだん弱くなっていきます。ですから、いちばん集中力のあるときに、集中の必要なメインの話をします。いちばん長くてテーマの重いはなしです。「今回はこの話だけを聞いてくれればそれでいい」という思いで選びます。
最後は、軽く笑って終わります。

2、雰囲気の異なった話を組み合わせる

雰囲気が似ていると子どもの思い描くイメージもよく似たトーンになってしまいます。すると、ストーリーが混同することがあります。背景の絵が異なるほうが、話の違いがはっきり見えてきます。日本の者と外国のものを組み合わせたりするのもいいですね。

3、モティーフの同じ話の組み合わせは避ける

たとえば、「手を切られた娘」(グリム童話)と「沼神の手紙」(日本の昔話)は、雰囲気は違いますが、手紙の書きかえ(ウリヤの手紙)のモティーフがおなじです。「みつけ鳥」(グリム童話)と「三枚のお札」(日本の昔話)は、呪的な力を使って逃げる(呪的逃走)モティーフが同じ。「おおかみと七匹の子やぎ」(グリム童話)と「赤ずきん」(グリム童話)「はらぺこピエトリン」(イタリアの昔話)は、おなかを切り開いてのみまこれていた子どもを助けるというモティーフが同じです。
先に聞いたイメージがあとの話に影響してしまいます。

4、構造の似た話の組み合わせは避ける

たとえば、「三本の金髪のある悪魔」(グリム童話)と「仙人の教え」(日本の昔話)は、悪魔(仙人)に教えを乞いに出かけるとちゅう、三つの質問を依頼され、帰り道で順に答えていきます。「トム・ティット・トット」(イギリスの昔話)と「大工と鬼六」(日本の昔話)もストーリーの似た名前当ての話です。

大人には興味深いかもしれませんが、子どもはもっとランダムに楽しむほうがいいでしょう。そうやっていろいろな話を聞いていくうちに、子ども自身が、同じモティーフと気づいたり、類話に気づいたりするのも発見があっていいと思います。 

5、季節外れの話や季節の先取りの話はしない

まだ人生経験の少ない子どもたちは、雪やかみなりなどの自然現象や、たなばたやひな祭りといった行事など、季節のものは、先取りしてもイメージしにくいと思います。ちょうどいま経験していること、またはつい最近経験したことをおはなしのなかで聞くと、実感できるので、子どもは「知ってる!」と、喜びます。

「ねずみのもちつき」はもちつきが終わって興奮がさめやらぬうちに。

6、様子を見てリラックスタイムをとるとよい

ストーリーテリングの合間の手遊びは、わらべ歌が、邪魔にならなくていいですね。

7、語り手はひとりかふたりに限定する

子どもは耳が敏感なので、語り手がつぎつぎ変わると、声に慣れようとして耳が疲れてしまいます。また、語り手が立ったり座ったりするのも落ち着いたムードが作れません。ひとつのプログラムに三人以上の語り手はお勧めできません。

8、テーマを設けるとよい

たとえば、「夏を楽しむ」「冬の夜話」「いのち」など。さまざまな方向からひとつのテーマにアプローチするのもおもしろいです。プログラム全体にまとまりが生まれます。

絵本 古典の力

数年前、ある高等学校でのことです。
保育科の授業で、生徒たちが保育園の子どもたちに読み聞かせの実習をするというので、その手ほどきに、講師として行ってきました。多くの生徒たちが幼いころに絵本を読んでもらった経験を持っていましたが、まずは「読んでもらう体験」を思い出してもらおうと、何冊かの本を読みました。

『ぐりとぐら』(福音館書店)『いないいないばあ』(松谷みよ子)『かにつんつん』……。キラキラした目を見開いて嬉しそうに聞いてくれる様子は、図書館に来る小さな子どもたちと少しも変わりません。純真さに驚き、心動かされました。 

その日は講義で終わり、次の週は、生徒たち自身が本を選んで持ってきて、みんなの前で読むことにしました。できるだけ地域の図書館に行って、たくさんの本のなかから自分の目でよく見て選んでくるようにといっておきました。

当日、生徒たちが持ってきた本は、『しろくまちゃんのほっとけーき』『ねずみくんのちょっき』『11ぴきのねこ』『しろいうさぎとくろいうさぎ』『はらぺこあおむし』『しょうぼうじどうしゃじぷた』などなど。

どれも長く読み継がれているいわゆる古典ばかりでした。 

最近、小学校の読み聞かせの時間に、ボランティアのお母さん方が選ぶ本は、新しい目先の変わったものに流れる傾向があります。子どもにワッとウケると読んでいて楽しいし、よろこんでくれていると錯覚するのでしょう。その傾向をずっと苦々しく思っていました。そして、高校生たちも同じ傾向にあるのではないかと思っていたのです。ところが、この結果です。

生徒たちの絵本を見る眼に深く安堵しました。そして、幼いころ読んでもらったよい絵本こそが子どもたちの心に残るのだということも、あらためて確信しました。心に残った絵本が基準となって、それにそって、自分が読む本を選んだのです。

私にとってもよい学びの場となった2日間でした。
古典に学ぶ……絵本選びでも大切なことです。 

それから5年以上たった今も、毎年同じ高校に行っていますが、高校生たちの選ぶ絵本は変わりません。

がんばろう~! ボランティアのおとなたち!

おはなしの間(ま)

間(ま)とは、ポーズのことです。楽譜でいえば休符の部分、楽曲の音のない箇所です。

どんな芸術芸能にも間(ま)はあり、それがその作品を生かしも殺しもします。
たとえば、能、狂言、歌舞伎や文楽といった伝統芸能には、秘伝の間のとり方があります。落語や漫才といった比較的新しい、テキストが現代進行形で変化しているハナシも、間をひとつ外すと、聞いていられない代物になります。

では、私たちの「おはなし」、「語り」といってもいいのですが、この場合の間はどう考えればいいのでしょうか。結論からいえば、「おはなし」も間(ま)がいのちです。
もちろん芸能ではありませんから、先にあげたそれぞれのジャンルとは異なることは確かでしょう。
 
言葉でうまく伝わるかどうか、難しいのですが、以下、おはなしの間について、考えを述べます。

「おはなし(語り)」には、ふたつの間があると思います。ひとつは、テキストが求める間、もうひとつは、語り手が仕掛ける間です。 

テキストが求める間

入門講座では、これから覚えようという話を読むとき、まずは段落分けをしましょうといいます。これが、テキストが求める間の一番大きな間です。場面が変わる、時間の経過が感じられる、そこで段落分けをしますね。大きく間をとる箇所です。
 
さらに、1文ずつの間というものがあります。「文」とは、句読点の「。」から「。」までの言葉の連なりです。前の文と次の文のあいだに間があります。「。」がそのしるしです。が、これは、前の文の意味と次の文の意味との関係によって、その長さが変わってきます。関係が間髪入れずなのか、フツーの説明なのか、想像を促しているのか。行間を読むことが大切です。
 
また、さらに細かく、言葉と言葉の関係によっても間が生まれます。その言葉の重さも重要です。重要な言葉は、「言葉を立てるように」と、わたしはいつも言います。それは、その言葉の前後に一瞬の間をとるとか、わずかに速度を落とすとかいうことです。決して大きな声で強調するというのではありません。間です。では、重要な言葉以外は重要でないのかというと、そうではなく、ひとつひとつが組み合わさって意味のある文章を作っているのだから、それぞれの役割があるはずです。よく読むと、さらっと流してほしがっている単語や、肩を組んで歩きたがっている単語たち、などが見えてきます。重要な語を引き立たせる役割の単語もあります。それを見極めるのです。 

わたしたちは、覚えるとき、テキストを何度も口にします。そのとき、多かれ少なかれ、上記の「読解」をやっているはずです。
 
テキストの読解ということです。テキスト自体は小中学生でもわかる文章だから、小中学校の国語の練習問題をしているようなものと思ってください。ただ、練習問題には決まった答えがありますが、私たちには、模範解答がありません。自分でどこまで詳細に読み取るかが課題です。これが語りの力を左右すると思っています。
 
このとき、現代演劇や朗読をする人たちの本の「読み」を見習うべきだと思います。彼らは、本を覚える前に徹底的に「読み」ます。 

語り手が仕掛ける間

これはいいかえると、聞き手が求めている間、でもあります。
 
芸能の間に近いかと思います。パフォーマンス的な意味合いがありますね。
 
おはなしは、聞き手が、つぎはどうなるかを予想しながら聞きます。語り手は、うまく予想させてやる、または、うまく期待を裏切ってやる、そうやって聞き手をストーリーの先へ先へと導いていきます。これは、テキストの文章を完全に覚えて、子どもに語って、語りながらでしか作れない間です。ひとりで練習しているだけではどうしようもないし、大人を前にした勉強会でも難しいです。現場でしか作れない間です。しかも、今日うまくいったからといって明日同じ間で語れるかというと、そうは問屋が卸さないところが、くせものです。
 
テキストの求める間は語り手が決めることができます。聞き手が求める間は、まえもって決めることができません。
 
具体的に。
 
テキストでは「。」だけれども子どもの引っぱる力によっては「、」ですらないこともあります。また逆に「、」なんだけども、まるで四部休符ほどの「。」を求められることもあります。これは子どもを見ながら、子ども+テキスト+自分、三位一体にならないと作れない間です。
 
これは、どうすればいいのでしょう。
 
入門講座で、子どもを知ることが大事だといつも言っていますが、ここにもその例があるのです。語ってあげるという上から目線ではなく、子どもの中に入っていかないと、子どもを知ることはできませんし、子どもははだかになってくれません。つまり、聞き手は受け身でしかなく、求めてくれないのです。
 
また、場数を踏むことがたいせつなのは当然です。
 
そして、意外に思われるかもしれませんが、リュティ理論、昔話の語法を知ることが、大いに役に立ちます。耳で聞いて伝えられてきたことから生まれた言葉の法則だからです。子どもに語ることでこの理論の正しさを実感することはしょっちゅうです。 

間。難しいですが、これが語りのだいご味、愉しさなのです。

ライブ録音から

語りの森では、子どもたちがどのようにお話を聞くのか、みなさんに実感していただきたくて、実際のおはなし会のライブ録音をときどき紹介しています。いろいろな条件をクリアした音源のみUPしています。 

「あなのはなし」小学1年生

あなのはなし1年生

お話を聞いていて、子どもが知らない言葉に出会うことはいくらでもあります。そのとき、子どもは、文脈から判断して聞くことが多いのではないかと思います。たいてい黙って聞いていますから。でも、ときどき、「~~~って、なに?」と声をあげる子がいます。
 
わたしは、子どもが自分で判断することも、声に出して質問することも、どちらも大切だと思っています。
 
お話は、聞き手と語り手の双方向で成り立つものです。だから、こちらからの言葉を子どもが前のめりに受けとめていれば(つまり、受け身で聞き流しているのでなければ)、思わず質問の声が出ることは、当然あり得ます。
 
では、質問されたとき、語り手はどうすればいいでしょう。
 
いま目の前に見えている物語の世界をこわさないこと。これがポイントです。
 
子どもは、その言葉が見えないから、見たいから、質問するのです。そうすると、対応は当然のことながら「説明してやる」のが正解です。世界が壊れない程度の短い的確な言葉で。
 
「あなのはなし」では、子どもが「小屋って何?」と聞いています。わたしは説明しています。そうでないと次の場面が見えてこないからです。
 
話が進んでいくと、「ひつじ」が出てきます。子どもが「ひつじ」と「やぎ」をごっちゃにしているのが聞き取れると思います。このときわたしは、「ひつじ!」ともう一度いうだけで、何の説明もしていません。質問ではないからです。すべてに正解を求めなくてもいいのです。 

「とりのみじいさん」小学1年生

とりのみじいさん1年生

これも、子どもの質問にどう対処するかの例としてUPしました。
 
最後の場面でお殿さまのくださる「ほうび」の語意を質問しています。わたしは、「たからもの」と答えています。もちろんこれは正確ではありません。でも「ほうび」はひとことでは説明できず、あえて説明すれば、物語の流れが途切れて世界が壊れてしまいます。そこで、この類話を参考にします。「はなさかじい」「へこきじい」などの隣の爺譚→昔話雑学 です。「ほうび」はたいてい「着物」や「たからもの」ですね。 

 「とりのみじいさん」図書館

とりのみじいさん図書館

上記1年生と同じ「とりのみじいさん」を図書館で語ったときの音声です。この日は0歳から10歳までの子ども20人余りと、大人が10人ほど聞いていました。上記1年生で質問が出た「ほうび」は使わず「たからもの」とテキストを変えて語っています。音声からわかると思いますが、幼児がとても楽しんでくれていたので、あえてわかりやすい言葉を選んでいるのです。
 
年齢に合わせて言葉を変えることは、少しは必要だと思います。でも何もかも変えてはいけませんし、たくさん変えないと分からない話やテキストを選ぶのも間違いです。
 
これが分からなければ全体の理解にさしつかえるようなキーワードの場合、変えます。また、子どもは、ちゃんと、キーワードを質問します。 

「おはなしの大好きな王さま」小学3年生

おはなしの大好きな王さま3年生

「かも取り権兵衛」小学5年生

かも取り権兵衛5年生

この2話は、演じなければおもしろくない話の代表的なものとしてあげました。
ただ、気をつけなければならないのは、「演じる」という言葉の定義です。
 
演劇では役者は登場人物になりきって話し、動きます。衣装もメイクも登場人物そのものです。役者が登場人物を「演じる」。とうぜん、人物に感情移入してその人物らしくリアルに演じます。リアルでなければ観ていておもしろくない。
 
お話の「演じる」はこの演劇の「演じる」ではありません。
 
ところで落語は、ひとりの人間が何人もを演じ分けます。でも歌舞伎の早変わりのようにいちいち衣装やメイクを変えません。ひとりの人間が話している。登場人物がおかみさんなら、おかみさんらしくしゃべりますが、だれがどう見てもそれは落語家さんです。それを前提に観客は観ています。
 
わたしたちのおはなし(語り)に話をもどずと、演じないと面白くないという場合、この落語的な「演じる」に近いものがあると思います。決して「同じ」ではありませんが。語り手は外から見ながら人物を描写する。演劇が人物の中に入って表現するのとの違いです。 

「ルンペルシュティルツヒェン」小学4年生

ルンペルシュティルツヒェン4年生

「三本の金髪を持った悪魔」小学5年生

三本の金髪を持った悪魔5年生

この2話は、結末部分で疑問を抱く大人が多いので、あげてみました。
 
「『ルンペルシュティツルヒェン』で、小人が自分の体をひき裂く場面って、残酷ではないでしょうか?」
「『三本の金髪を持った悪魔』で、主人公の若者がうそをついて王さまに復讐するのは、道徳的とは言えませんよね?」
 
これらは、どちらも昔話の語法で説明ができます。が、いまは、子どもの聞きかたから、答えを探してもらいたいと思います。
 
「ルンペルシュティルツヒェン」では、子どもたちはびっくりしながらも、いやがってはいないでしょう。ほんとうに残酷に感じるならしーんとするはずです。子どもはおとなよりもそういうことには敏感に反応しますから。ただ、語りかたにも気をつけて聞いてください。私の気持ちは語りに出ていますか? 出ているとしたら、「な、おもしろいやろ」という程度の軽い気持ちであって、からだを真っ二つにするという事柄の深刻さ残酷さとはかけはなれた感じがありませんか?
 
「三本の金髪を持った悪魔」の主人公。昔話は主人公中心にストーリーが進みます。主人公が幸せになるためには何でもありです。子どもたち、最後の場面をよろこんでいるでしょう。若者がうそをついた場面では、子どもたちの顔がぱっと明るくなりました。破顔一笑。
 
悪知恵も使いながら、人は人生を歩いていくものです。そうやって生き抜け、幸せをつかめ、という昔話のメッセージです。
 
このメッセージに語り手が共感しないとき、または疑問を持っているときは、この話は語ってはいけないと思います。その気持ちが聞き手に伝わるからです。先人が伝えてくれた昔話の知恵が台無しになってしまいます。わたしの語りを聞いてくださったら、共感していることが分かると思います。「ほ~ら、うまいことやったでしょ」という顔で語っていたと思います。